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アメリカンに映画を観る!

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

アカデミー作品賞受賞作『グリーン・ブック』前情報(そんなに「いいハナシ」なのか?)

 海外のポッドキャストを普段からよく聞いているのだが、中でも毎週更新が待ち遠しい番組が"Still Processing"で、性的マイノリティ&黒人という二重の意味で少数派の男女二人(Jenna Worsham & Wesley Morris)が、アメリカのポップカルチャーが今日の社会にどういう意味を持つのか、丁寧にかつ快活に説くものだ。かなりシャープな議論を展開する二人の話は本国アメリカの議論自体の何歩も先に行っている感すらある。そこで何度か引き合いに出てくるのが今年のアカデミー賞候補『グリーンブック』だ(どうも作品賞は『Roma』かこれが有力候補らしい)。

 

Rotten Tomatoesでも80%、imdbでも8.3/10と、観客、批評家双方の評価は高い。しかし、異人種間の「友情」を描く本作に対する二人の評価はかなり手厳しい。正直なところ、二人は結構憤っている。

https://www.nytimes.com/2019/02/21/podcasts/still-processing-fantasies-spike-lee-do-the-right-thing.html

 そのあたりをより細かく分析しているのが、Wesley MorrisによるNYTの記事。

Why Do the Oscars Keep Falling for Racial Reconciliation Fantasies? - The New York Times

(荒く訳してみると、「なぜアカデミー賞は、人種和解というファンタジーに騙され続けるのか?」)

 たしかに、『ドライビング・ミス・デイジー』のような、終始雇い主に従順な黒人と、最後は少しばかりの優しさを見せる偏屈者の白人という構図を『グリーン・ブック』は反転させている。しかしながら、結局人種差別的考え方(露骨なものあれ、マイルドなものであれ)を持つ白人の成長を描くことで、彼を簡単に赦してしまっており、人種問題に一種の解決を見出そうとする映画の構造は変わっていない・・・と乱暴にまとめてみるとこうなるだろうか。要するにこの映画はリベラルを自称する白人たちが求めるような映画であるが、そのような異人種間の関係を温かいまなざしで描いた本作が当事者である黒人たちには、寒々しく映るのだ。

 本作を未見の立場でありながらではあったが、とりあえず「いい話」として日本に紹介されている本作に対する違和感を表明しておきたかったので、上記の内容を紹介してみた。興味のある方は是非本文を読んで頂きたい。

 

 

 追記:

 見事に『グリーン・ブック』が作品賞に輝いた。脚本賞を受賞したスパイク・リーの反応は以下の引用の通り。

. . . When "Green Book" won best picture, he made a disgusted gesture and started walking out of the theater as "Green Book" producers gave their speeches. Backstage, Lee said "No comment," when asked about the coronation of "Green Book," which detractors complain has a retrograde view of race. 

Oscars 2019: ‘Green Book’ Is Best Picture; Rami Malek and Olivia Colman Win - The New York Times

(拙訳)

 『グリーン・ブック』の作品賞受賞が決まり、スパイク・リー監督はうんざりした身振りをして、本作のプロデューサーが受賞スピーチをする中、会場から退場し始めた。舞台裏にてこの受賞について訊かれたリー監督は「ノーコメント」。この作品を、時代遅れな人種観を持つ映画だとして非難する者もいた。

 

 

 

備忘録:ゴダールの新作はどうなっているのか

ジャン・リュック・ゴダールの新作『イメージの本』が日本で一般上映される日もそう遠くはないはず、なのだがいまいちどういう映画なのか分かっていなかった。そこで、たまたま自分がぶつかった情報を軽くまとめてみた。

まず始点は蓮實重彦。以下のツイートは、今年1月にあったトークショー(本人監修の「ハリウッド映画史講義特集」における『拳銃魔』(1950年、傑作!)上映会にて)でのもの。

 夢中で年明け早々ゴダールを見まくる蓮實氏。

そして次は早稲田大学教授藤井仁子ツイッターならぬブログ上の一連の投稿。

(完全に余談だが、ちゃんと「つぶやき」ではなく「さえずり」と表現しているこのブログ投稿が本来の意味でのtweetということになる)

革命の日の朝の屑拾い日記」02022019

mgccinema.exblog.jp

 さえずり 02022019

「それでもまだ物語ることはできる」でずっときたゴダールがそれをやめたということか。芯となる人物も消えたことにまずはシンプルに驚くべきだろう。ゴダールは(彼なりの)創作のきっかけがわりと見えやすい人だが今度はよくわからぬ。いやむしろアラブと明言されているのがまるで信じられないのだ。

 さえずり 02022019bis

演技された老人の嗄れ声による遺言ごっこは相変わらずだが90近い爺さんにやられるとごっこなのかマジなのかが判別できないというのは実は重要なポイントだと思う。全篇が偉い人の真顔の自虐で笑っていいのかわからず困る感じ。昨年の騒動にからめていえば贋作といわれたほうがいろいろスッキリする。

さえずり 02042019
対位法の話をしながら流れるのはメンコン。むろんメンデルスゾーンがいなければバッハが再発見されることもなかったという途中の理屈が平気で省略されるがゆえの相変わらずの喰えなさではある。だがこのように簡単に解説できてしまうところにこそ引っかかるのだ。やはり衝撃力は目に見えて落ちている。 

さえずり 02042019bis
というかそのような衝撃力などはなから目指していない感じがこれまでと違いすぎる。どうも本気で自分の映画にアラビア語を響かせたいわけでしょう。意味はわからなくてもこの響きを聴けと。『映画史』のあのどこまで本気かわからないイタリア語讃歌とは全然違う。今さら西欧中心主義を反省? まさか!

さえずり 02052019
いちばん似ているのは『オリヴァー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』といえばさすがに怒られるか。その自作引用の仕方にも引っかかる。このときこの場面を撮ったのはこういうねらいでしたと作者本人に解説される感じが否めないのだ。めずらしく英語圏で絶賛の嵐というのがなんかわかっちゃう。

さえずり 02052019bis
英語圏だとこういうのはエッセー映画であっさり通じるし現にそう評されている。よかったですねえアニエスさん、ジャン=リュックがちょっとあなたに近づきましたよ。真面目な話、少し前までのゴダールならアラブに映画は存在しないと平然といいはなったはず。それが今回は何? 変わったってことなの?

最後はジャズミュージシャン/評論家の菊地成孔が今年2月8日のネット配信サイトDommuneでの番組でしゃべっていた内容を振りかえってみると、どうやら今回の作品はゴダールが今まで撮った映画の切り貼りのようなものに、本人のナレーションをかぶせたものらしい。しかも、スクリーンサイズが本編中に変わっていく。そして、試写一号で観ていた人たちの大勢はどこかのタイミングで寝ていたらしい(笑)

 

ディザスター・アーティスト 映画の中と外

 


The Disaster Artist Teaser Trailer #1 | Movieclips Trailer

 

 映画の中

 アメリカコメディ界の巨匠、ジャド・アパトーが世に問うた『40歳の童貞男』を「ブロマンス映画」(男友達の友情映画)元年とするならば、はや15年近くが経過したことになる。今なお同型の映画に関わり続けるジェームス・フランコは、本作でとうとう後世にカルト作"The Room"として知られることになる、かの「史上最大かつ最高の駄作」の裏話にまで手を出すこととなった。

 肥大しきったエゴとそれを見事なまでに反映する無能さが祟り、予想通り映画製作は難航を極める。しかし、最終的に主人公たちの元に残されるのは、一本の「愛すべきおバカ映画」、まさしくアパトーギャングが作り続けた映画と激しく共振するものなのだ。しかも本作では、監督・主演のジェームス・フランコの弟であるデイブ・フランコが助演を務めており、文字通りの「ブロマンス映画」に仕上がっている。

 

 映画の外

 しかしながら、ここまで力強い喜劇を作り上げたジェームス・フランコ本人は、一連の#MeToo運動の流れにおいて、セクハラ告発を受けている。『ディザスター・アーティスト』の主人公は、自身が是が非でも作りたい映画"The Room"の監督なのだが、彼がベッドシーンを自ら演じる際に本人がほぼ全裸で登場してくる。そこで問題がまさしくセクハラに該当するもので、主人公とその親友との間に亀裂が生じることとなる。実際のところ、そのベッドシーンにおける女優は、タフに現場対応しているのだが、そういった監督の責任は問われることもなく、再び作中で検証されることはない。そんな主人公を監督ジェームス・フランコは、期せずして、か否かは分からないが演じている訳だ。『ディザスター・アーティスト』におけるディザスター・アーティスト(散々な、壊滅的な芸術家)は、数奇な映画人としていわば愛される運命を辿ることになるが、そういった舞台映画を作ったジェームス・フランコを同列に見ることはできないだろう。

 

『ソウル・サーチング』(ソウルへGO!, Seoul Searching)

 友人に勧められてNetflixにて鑑賞。外国で生まれ育ったティーンが80年代の韓国でサマーキャンプに参加する群像劇。一癖も二癖もある人たちが、盛大にハメを外してバケーションを満喫する中、徐々に自分たちが隠してきた側面も見せるという展開はアメリカ青春映画の王道パターンだが、それをオールアジア系キャストでやっているのは新鮮だし見ごたえがあった。「この(ネット)世界の片隅」に見つかる良作であることは間違いない。


Seoul Searching - Official 15 Second Movie Trailer HD - Trailer Puppy

 2015年公開の本作は最近の80年代リバイバルの流れを汲んでいる。そして我々はジョン・ヒューズがあくまでも80年代当時に生み出した映画内世界にノスタルジックな形で生き続けている。80年代なるものは、Netflixドラマ『ストレンジャー・シングス』、大ヒットホラー映画『IT』、Netflixオリジナル映画『好きだった君へのラブレター』、あるいは日本での上映が待たれる『バンブルビー』など、枚挙に暇がないほどの作品に回帰している。

 このブログが何度も引き合いに出している『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が、50年代(つまり1985年→1955年)を一種の牧歌的時代として描き直しているように、80年代リバイバルはやはり30年前の時代をどこか懐かしんでいる。未だに80年代のポップカルチャーについてどう思えばいいか自分であまり分かっていないが、少なくとも今の映画に当時の古いジェンダー観や人種的偏見を無批判に持ち込むのだけはやめてほしいなあと思う。

2018年の映画総括 下半期 (ブリグズビー、ボルグ/マッケンロー、サーチ、1987など)

下半期の映画について。

 

 前回の投稿に続き、まず2018年の映画ではない話からになってしまう。去年公開の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』は、「賛否両論」という表現が付きまとう映画だった、と個人的には記憶している。その「否」の意見が、建設的な批評精神に基づくものだけならばよかったのだが、単純に男性のスターウォーズファンによる女性嫌悪に基づくものも混ざっていた。具体的には、レジスタンス側のエンジニアを演じたベトナム系のケリー・マリー・トラン氏がヘイトスピーチの被害に遭い、自身のインスタグラムのアカウントを削除することになった。その結果、今の時代、アジア系の女性がスター・ウォーズで重要な役を持っていて何の問題があるのか、という新生スター・ウォーズの「多様性」を肯定的に見る意見もより強固になったのではないか、と思う。むしろ論点となるべきだったのは、(某友人が自身のtwitterで書いていた投稿を敷衍するならば)アジア系の出演を歓迎する、というシンプルな点よりも、いかに彼女が多様性を標榜する当作品の中で描かれていたのかという点だろう。

 

 (で、再び『デッドプール2』の話題に戻ると、日本人女優が出演していたという事実が肯定的に日本では語られていた。しかし、アジア系の描かれ方に関して言えば、特にアメリカのアニメではアジア系の髪の色がやたらピンクであることが多く、結局今回もそのステレオタイプを踏襲しているのではないか、という指摘も英語圏ではあったようだ。もちろんその彼女が実は恐らく超優秀なアサシンだ、という設定も忘れてはならないのだが、単にマイノリティを出せばいい、とかいう話では決してない訳だ)

 

 しかし当然ながら、そういったオタク性と密接に関係を結ぶミソジニーとは別に、『最後のジェダイ』による盛大なちゃぶ台返しに辟易とした観客も少なからずいたようだ。自分はその一人ではないものの、彼らの気持ちは大いに理解できる。そんな観客はブリグズビー・ベアを見るとどう思うのだろうか。

 

 何を隠そう、『ブリグズビー・ベア』は、自分たちの家族を渇望する夫婦に誘拐されたという実情を知らずに、監禁状態のまま青春時代を通過してしまった主人公の物語でありながら、その「父親」を演じていたのがルーク・スカイウォーカーを演じていたマーク・ハミルだという事実があまりにも衝撃的だからだ。『最後のジェダイ』が「父」(ルーク・スカイウォーカー)から「子」(レイ)への継承を巡る神話だとするなら、『ブリグズビー・ベア』も血のつながっていない父から子への継承を巡る現代版神話だ。いずれの場合も、父は穢れなき存在ではいられず、そんな父を子は乗り越えて自らの物語を新たに紡ぐほかない。スター・ウォーズの続き、ではなく、別のスター・ウォーズ、と思わせるだけの物語が『ブリグズビー・ベア』にはあった。

 

 箸休め的に書くとシリーズものは下半期も色々観た。しかし、『ミッション・インポッシブル/フォールアウト』において迫力満点かつ極めて危険なスタントをこなした人間トム・クルーズ、というノンフィクションにかなうものは何もなかった。また、シリーズにはなりえないカメラを止めるな!は最高のエンタメだった。観客の反応の良さが気持ちよかった。ポン!

 

 『カメラを止めるな!』は誰もが話題にしている感覚があるので、あえてこのブログで激賞しておきたいのは『ボルグ/マッケンロー』だ。性格が対照的なテニスプレイヤーが決勝戦で火花を散らす―――だけの映画ではあるのだが、その決勝戦に行きつくまでに我々の二人に対する認識が180度変わってしまう、という形式を取っていることが大変面白い。例えば同じような設定で『ラッシュ/炎の友情とプライド』を個人的に思い出すのだが、あの傑作が描くのはあくまでも対照的な人間が友好関係を築きながらも、お互いの差異を極端に埋めあうことなく最終戦で衝突する様だ。

 

 極めて理性的で冷静な王者ボルグに向かうは、感情的でケンカ腰な挑戦者マッケンロー。恐らくそういった現実認識を当時持っていた人は多いだろう。しかし、当時主にテレビというメディアにより形成された二項対立は、数十年後の本作、つまり映画というメディアにより突き崩されていく。ボルグには実際のところマッケンロー以上に荒い気性のプレイヤーだった。完璧主義者というペルソナの下、ルーティーンにより必死に自身をコントロール(抑制)しようとしていただけなのだ。一方でマッケンローは、ボルグに強くあこがれていたが、プレーにはそれが反映されず、むしろ試合中積極的に怒りをあらわにすることで自分のペースを作り出し、流れをコントロール(操作)していた。そんな二人が対戦する最終試合には、手に汗握る展開とともに彼らの葛藤が滲み出る。「拾い物」と表現するだけでは物足らない映画だった。

 

 『サーチ』はたしかにPC画面上で起こることしかには映さない、という奇抜なコンセプトを完遂させた映画として興味深いが、アイデア負けしないスリラー映画だった。情報過多になりがちな個人のPC画面に、共感できるネタを盛り込みつつ、トリックのヒントを同じ画面に提示し、それでいて映画内の世界で現実に起こっている「映画のような話」がニュースの見出しを追えば少しずつ分かってくる、という多層的な本作の楽しみ方は、このユニークな形式でしか成立しえなかったものだ。未だに日本ではソフト化されない、傑作大麻コメディ『Harold & Kumar Goes to White Castle』の主演俳優ジョン・チョウの出世ぶりがうかがえる。また、鑑賞前後にNetflixの”American Vandal”シーズン2視聴をおすすめしたい。

 

 最後に触れておきたいのが1987、ある闘いの真実。今年の上半期に公開された『タクシー運転手』(これもぜひ鑑賞をおすすめしたい)が描いた「光州事件」(1980年に起こった大規模な民主化運動のデモの武力的弾圧。多数の死者を出した)から7年が経過した韓国社会を描いている。民主主義国家には道半ばの韓国の人々がいかに再び立ち上がることになったのか、スリリングかつシリアスに描いており、群集劇として大いに見ごたえがある作品となっている。多すぎる登場人物たちが大渋滞を起こしたままだった『スーサイド・スクワッド』を思い出してしまったが、少なくともその続編は例えばこの映画から何か学習した上で作ってほしいと切に願う。

 

 

2018年の映画総括 上半期 (ブラックパンサー、シェイプ・オブ・ウォーター、ペンタゴン、アイ,トーニャなど)

今年も残りわずか。とりあえず今年の前半を振り返ってみたい。

 と言いつつも、厳密には2017年12月に封切となった松岡茉優初出演作勝手にふるえてろについてまず言及したい。(この映画、年は跨いでいるので一応2018年の映画ということで話を進める) 本編にてある「大きな転換」が起きたとき、これは傑作だ、と思ってみていたところ、ラスト10分ほどの展開にモヤモヤして映画が終わってしまった。今年ベストかワーストか二極的に決めるしかないだろうなと勝手に思っていたら、いつのまにか2018年も残すところ数日だ。結局あのモヤモヤは解消されないままだ。ある設定により担保されていた「思ったことを全部口に出す」という行為の正当性が、さらなる設定変更を受けて消失してしまったことが残念だった。また見てみたい映画であることには変わりはないが。

 韓国アクション映画『悪女』はとてもよかった。昨年の『お嬢さん』が韓国映画の新地平を切り開いたとするなら、本作は全世界のアクション映画の文法を変えてしまったと言えるかもしれない。

 フランスホラー『RAW』も、とんだ珍作かつ快作だった。青春という一期間に閉じ込められた者が、「食」を通じて「愛」の手触りを感じるという話、だと強引に要約しておく。(心理的に怖い、というよりも)時折登場するショッキングな描写があるゆえに「ホラー映画」というラベリングは避けられないだろうが、意外にも爽やかな映画。

 3月はシェイプ・オブ・ウォーター』『ブラックパンサーの二本立てが映画の日に見られる、という贅沢な月だった。前作がアカデミー作品賞に輝いた際、「怪物映画を愛してやまないオタク」として涙を禁じえなかった某映画評論家(彼がいなければ自分もこんなブログをやっていたかどうかわからないくらい多くを学んでいる評論家ではあるが)がいたが、某音楽家兼が文筆家が鋭く指摘する通り、「現代社会に於いてオタクはとっくにレコンキスタドール(著者注:再征服者、国土奪還者)として、「キモがられていた時代」を正々堂々と転覆した」のだ。

 ちなみに、2019年も二人の「論争」を見られるのだろうか。過去の例から言えば、知的でいながら熱情的な前者の映画紹介が、後者のいささか冷ややかな、それでいて時に衒学的な文体による批評文と衝突し、「論争」なる言葉でもってその現象が表現されるようになる。自分を含む「映画語り」でネット空間があふれかえっており、映画評間での対立が、1対1とは程遠い、多対多になっている今、こういったキャラの立った二人が意見をぶつけ合わせることをやはり期待してしまう。

 本題に戻る。むしろ個人的には冷戦スリラー (水面下で展開する政府の陰謀は概して「怪物的」だとは言えないだろうか)として本作を見ていたが、その観点からも大変興味深い作品だった。後期スピルバーグの傑作『ブリッジ・オブ・スパイ』がまた見たくなる。また、動物による動物への容赦ない扱い(具体的にいうと、被害"者"は猫)が、人間が非-人間に見出すファンタジー(つまり、たとえ人間でない存在でも、人間らしさは持ち得る、という類のもの)の脆弱性を浮彫りにしていたように思えた。ペット好きにはたまったものではない描写だが、人間よりもはるかに動物を大事にする映画のお決まりがここに覆っている。それを進歩を呼べるかどうかは別問題だろうが。

 またもや余談だが、『ジョン・ウィック』シリーズにおいて展開し続ける大乱闘は、主人公の愛犬(同時に亡き妻の象徴でもあるのだが)が無残にも殺されたことに端を欲する。人間の暗殺者の死体がどれだけ積み重ねられようとも、ハリウッド映画における倫理的基準はやはり一匹の犬を重要視する。生類憐みの令はアメリカにおいても健在である。

 後者の『ブラックパンサー』に関しては、「多様性」が文化的に豊潤なものを生み出す、という至極当然かもしれないことを改めて教えてくれた作品だった。一人の男が王になるために本人の成長が必要不可欠となる、という意味では『ライオンキング』、機密情報を巡るスパイアクション映画、という意味では007シリーズ、そして王座争いを巡る、陰影に富んだ人間関係という意味では『ゴッドファーザー』を意識したこの映画は、大変画期的でありながら、観客の心をつかむ伝統的要素をきちんと押さえていることもたしか。


 二本立てと言えば、質と量ともに衰えることを知らないスピルバーグが今年はペンタゴン・ペーパーズ』『レディ・プレイヤー1』を世に問うた。後者の前哨戦として前者を見た。が、個人的にはポップカルチャーつるべ打ちの後者よりも("Stayin' Alive"はたとえ皮肉でノスタルジックな場面においてですらもう映画館で聞かされるべきような曲ではない、と思う)ライバル紙に負けまいとするブンヤの泥臭い闘争記の前者の方が心にぐっと来た。

 付言しておきたいが、彼らの動機は政府の悪事を暴くというジャーナリズム的正義感に下支えされているのはもちろんだが、それと同時にビジネスとして新聞社を存続させる必要がある、という極めて現実的な問題も絡んでいることも忘れてはならない。もちろん史実を「ありのまま」に伝えることが映画の最優先事項だとも限らない。まず第一に映画は映画として面白くなくてはいけない。

 その点に関しても、『ペンタゴン・ペーパーズ』は、カメラワークは軽妙かつ流麗で、映画として映えるシーンもきちんと盛り込んでいる。例えば、交通量の多い道を渡ろうとする歩行者に車がギリギリのところで止まる下りを繰り返す場面や、印刷機を回し始め上階の部屋が揺れる場面を『ジュラシック・パーク』における恐竜来襲の前触れのごとくスピルバーグは撮っている。それと同時に、メリル・ストリープ演じる、ワシントン・ポスト紙の責任者としての苦悩とブレークスルーも描かれることはまさしく70年代に起こった第二次フェミニズム運動と呼応するものであり、その証拠に、主要人物たちが危機を切り抜けた終盤の場面で銀幕にはっきりと映し出されるのは、様々な人種の女性たちの顔ぶれだ。

 力強い女性だが、それでいて大変複雑な境遇にあるのは『アイ、トーニャ』の主人公トーニャ・ハーディングだ。演じるはマーゴット・ロビー。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』におけるファム・ファタール(運命の女/魔性の女)役でその名をとどろかせることになった彼女だが、本作では彼女自身がプロデューサーとしてこのハーディングの役に就いた。今回の映画では、特に誘惑もしないし、大富豪となる男と結婚する訳でもない。むしろ、彼女の活躍を阻むのは、貧困と文字通り暴力的な人間関係だ。1970年代、1980年代の骨太なロックをバックに、痛快に物語が進行する本作は、快活な音楽が暴力を彩る実録もの、つまり『グッドフェローズ』的映画なのだ。

 そして最後はデッドプール2』。A-haの『テイク・オン・ミー』のPVパロディー及び、ミュージカルAnnieの『Tomorrow』が本作中の一番泣ける場面だという事実だけで、いかに本作が観客を笑いと涙を同時に届けようとしているかが分かる。スーパーヒーロー映画疲れなどないかのごとく、次々と新作がハイペースで投入され、結局観客の欲望に飽和状態はないことが事後的に確認されるこのご時世、デッドプールは、メタな視点から自分自身を含む業界そのものにツッコミを入れ続けることにより、必死に「また似たようなスーパーヒーローもの」になることを回避している。そして、彼を演じるライアン・レイノルドが、何度もスーパーヒーローものにおいて成功することを試みつつも失敗し、とうとう本シリーズで大逆転を収めたことがもちろんデッドプールの不死身性と共振することは言うまでもないだろう。ただこれとは全く異なる観点から思っていることはあるので、下半期の投稿にて、本作についてもう少し書くつもりだ。

 最後の最後に残しておいたのがパディントン2』。1月公開の映画だが、このウェルメイドな映画の記憶と印象は今なお薄れることはない。たとえ期待している以上のことが起きなくとも、その一つ一つが丁寧に作られていることでここまで満足できるものができるのか、と何でもあまのじゃくに映画を観てしまう者として感銘を受けた。また、映画の中でも滅多にお目にかかれない、裏のない人々の優しさに心が温かくなった。(下半期につづく)

テラスハウス私論ー軽井沢編再始動を記念して

 テラスハウス軽井沢編の最新話が、今日Netflixで先行配信されました。Netflixの映画やドラマはジャンルを問わず広く見ていたつもりでしたが、この番組だけはどうも共感できる気がしなかったので、少し敬遠ぎみでした。
 ところが、最近薦められて軽井沢編を見始めたところ、見事にハマりました。軽井沢編だけですが、2週間くらいで追いつけたと思います。たしかに一種の恋愛バラエティという前提で観るのに躊躇する人はいるかもしれませんが、この番組を引き立てるものとして個人的に大変好きなのが、独特の多重構造です。ざっとリストアップしてみると、こんな感じになります。

(内枠 = 番組本編)
第一層:テラスハウスでの記録映像
第二層:副音声を含むスタジオの反応(=「批評」)

(外枠 = 番組本編外のコンテンツ)
第三層:Youtubeの未公開映像
第四層:個人のインスタ等、出演者のSNS

 第一層では、テラスハウスの住人たちが生活している様を淡々と見続ける訳になりますが、副音声オンで展開する第二層での多声的な反応により、僕のような「テラハ初学者」でも当番組の見方を少しずつ学習できます。
 もちろん視聴者も単なる傍観者としてとどまり続けることは出来ません。出演者の一挙一動を巡る是非が差し込まれていき、スタジオでのキラーフレーズ連発の「批評」が展開していくことで、視聴者もテラハ的世論なるものをイメージし、ネットでも共有していくことになるのです。

 Youtubeの第三層では、知られざる(というか、編集上カットされた、あるいはあえて残しておいた)映像が各話ごとに用意されていて、各出演者の認識を変える、または反転させてしまうような情報を発見してしまうことがあります。第一、二層でほぼ固まりつつあった出演者の認識が実は十分な情報に基づいていなかった、換言すれば、「私たちは彼ら、彼女らのことをあまり分かっていなかったのでは?」と思い知らされることもあります。

 そして第四層のSNSでは、出演者のテラハライフを垣間見ることが出来ます。そこでも本編を見る限りでは知りえないような生活の一部が展開しており、また本編の配信と実生活とは数週間もの時差があるので、今後の展開を推測するヒントとなりうるかもしれません。軽井沢編は今年の12月で終わりを迎えるそうですが、複雑に絡み合う21世紀のメディアを介して展開する重厚な人間模様に注目していきたいです。