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アメリカンに映画を観る!

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

スパイダーバース (2019年上半期傑作選①)

 2000年代以降から当時の映画を観てきた人たちは、スパイダーマン映画史の生き証人であると言ってもいいだろう。サム・ライミの「スパイダーマン3部作」から始まったこの歴史は、マーク・ウェブ監督によるリブート、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)への参入(『キャプテンアメリカ シビル・ウォー』、『ホームカミング』)を経由して、2019年3月の時点では『スパイダーバース』で一つの頂点を迎えた。

 消耗感を個人的に覚えていたスパイダーマン・シリーズ(といっても何を指しているかはっきりしないところに一種の病理がある)に新たな光がさした、と表現するほかない。実写版にある種の視覚的限界があるなら、コミックの派手でポップなビジュアルに映画ならではの動きを加えればいい。リブートが繰り返される現状がマンネリ化し、そこに物語的限界があるなら、一人のスパイダーマンではなく、背景の異なる複数のスパイダーマンを映画に出せばいい。こうしたアメコミならではの「節操のないサービス精神」を導入することでこの映画は成立できたと言えよう。

 また、そういった具現化される可能性と対照的にどうしても避けられないヒーローの宿命も提示していたことも忘れてはならない。そこにはやはりスパイダーマンであることの悲哀がある訳で、それゆえジョークを飛ばしながら快活に戦い続けるスパイディたちの奥深さを見ることが出来る。

 しかしながら、スパイダーマンという物語のバトンはアニメでなく、また一旦実写版トに返される。10年来の大団円を迎えたMCUの製作陣はあの初々しい『ホームカミング』を乗り越えて、その功績に恥じない作品を作ることができたのか。

『エンドゲーム』短評紹介 (ネタバレなし)

 

以下は『エンドゲーム』短評の拙訳だ。コンパクトに注目点がまとまっていたので紹介する。

https://www.vox.com/culture/2019/4/26/18518556/avengers-endgame-review

 

待望の「アレ」がやってきた。MCUの「インフィニティ・サーガ」の"非"公式な大フィナーレ-2008年の『アイアンマン』の公開から始まったシリーズ最終作-がようやく劇場公開された。ネタバレは当然控えるが、『アベンジャーズ:エンドゲーム』は、何年にも及んで流れ込んできた数々のプロットやキャラクターたちに満足のいく結末をもたらすものであり、過去作から生じた多くの物語の糸筋を何とかまとめ上げている。

 もし本作が「完全に」首尾一貫していないとすれば-プロット上の穴、科学(?)面での不可解さ、そして数多くの疑問は残ったままだ-それはあまり問題ではない。本作以前の一部のMCU映画が成し得ず、本作が成し得たことは、本当の感情的共鳴であり、巧みに構成されているバトルシーンや泣かせる場面は多くある。そして『エンドゲーム』はMCUにおける新たなる時代のためのステージも用意している。(by Alissa Wilkinson) https://www.vox.com/culture/2019/4/26/18518556/avengers-endgame-review

 

この評者Alissa Wilkinsonは自身のツイッターでとても興味深いツイートをしていたので次いでに紹介したい。

『エンドゲーム』のようなものを見ていると、どこかの映画会社が聖書映画のシリーズを作れたらどれだけすごいことか考えてしまう。全体のストーリーが、ファンたちのためのコント集でなくて、何百万ものキャラクターととてつもない山場から成るストーリーであることに気づけば。

https://twitter.com/alissamarie/status/1120862844759826432?s=20

 

ある一つの終わり エンドゲーム鑑賞後の所感 (ネタバレなし)

 一映画ファンとして常に興味を持つのは、一連の映画作品からなるシリーズないしジャンルの「終わり」だ。

 1969年公開の西部劇『ワイルドバンチ』は、時代遅れのアウトローたちの末路を衝撃的なラストのアクションシーンでもって描き切った作品だった。本作は当時西部劇という一ジャンルの終わりを告げるものでもあった。それはたしかに完全ではないにせよ、「一つ」の終わりではあった。

 X-Menシリーズのウルヴァリン三部作完結編である『ローガン』は、あるガンマンの象徴的死を通して西部劇なるものの終わりを暗示させる『シェーン』を明示的な参照点として設定することで、重厚な「近未来の西部劇」たりえた。X-Menの代表格であるウルヴァリンの最期は、X-Menシリーズの有終の美を飾り得ただろう。しかし、当然ながら後続作は控えている。一旦修正したタイムラインにおいて更なる敵が出現し、「最強の敵」のインフレーションに歯止めがかからなくなる。物語は「はしたなくも」続いていく。

 4月26日公開の『アベンジャーズ:エンドゲーム』は、間違いなくアベンジャーズシリーズ第4作目にして最終作である。これでもって11年間に及び、23本の映画から成る「インフィニティ・サーガ」は終わりを迎えた。しかし、映画あるところに人々の欲望は宿り、人々の欲望あるところに映画は宿る。既にスパイダーマン単独映画二作目である『ファー・フロム・ホーム』はこの夏確実に劇場にやってくる。マーベル映画も美しい終わりなどを迎える気はない。ただ「はしたなくも」続いていくのみだ。ともすると、この終わりなき世界で一つの終わりをかみしめるには、我々に多くの豊潤な体験を与えてくれたアベンジャーズに感謝の念を表すとともに、はっきりと別れも告げなければいけないだろう。

 

 

アカデミー作品賞受賞作『グリーン・ブック』前情報(そんなに「いいハナシ」なのか?)

 海外のポッドキャストを普段からよく聞いているのだが、中でも毎週更新が待ち遠しい番組が"Still Processing"で、性的マイノリティ&黒人という二重の意味で少数派の男女二人(Jenna Worsham & Wesley Morris)が、アメリカのポップカルチャーが今日の社会にどういう意味を持つのか、丁寧にかつ快活に説くものだ。かなりシャープな議論を展開する二人の話は本国アメリカの議論自体の何歩も先に行っている感すらある。そこで何度か引き合いに出てくるのが今年のアカデミー賞候補『グリーンブック』だ(どうも作品賞は『Roma』かこれが有力候補らしい)。

 

Rotten Tomatoesでも80%、imdbでも8.3/10と、観客、批評家双方の評価は高い。しかし、異人種間の「友情」を描く本作に対する二人の評価はかなり手厳しい。正直なところ、二人は結構憤っている。

https://www.nytimes.com/2019/02/21/podcasts/still-processing-fantasies-spike-lee-do-the-right-thing.html

 そのあたりをより細かく分析しているのが、Wesley MorrisによるNYTの記事。

Why Do the Oscars Keep Falling for Racial Reconciliation Fantasies? - The New York Times

(荒く訳してみると、「なぜアカデミー賞は、人種和解というファンタジーに騙され続けるのか?」)

 たしかに、『ドライビング・ミス・デイジー』のような、終始雇い主に従順な黒人と、最後は少しばかりの優しさを見せる偏屈者の白人という構図を『グリーン・ブック』は反転させている。しかしながら、結局人種差別的考え方(露骨なものあれ、マイルドなものであれ)を持つ白人の成長を描くことで、彼を簡単に赦してしまっており、人種問題に一種の解決を見出そうとする映画の構造は変わっていない・・・と乱暴にまとめてみるとこうなるだろうか。要するにこの映画はリベラルを自称する白人たちが求めるような映画であるが、そのような異人種間の関係を温かいまなざしで描いた本作が当事者である黒人たちには、寒々しく映るのだ。

 本作を未見の立場でありながらではあったが、とりあえず「いい話」として日本に紹介されている本作に対する違和感を表明しておきたかったので、上記の内容を紹介してみた。興味のある方は是非本文を読んで頂きたい。

 

 

 追記:

 見事に『グリーン・ブック』が作品賞に輝いた。脚本賞を受賞したスパイク・リーの反応は以下の引用の通り。

. . . When "Green Book" won best picture, he made a disgusted gesture and started walking out of the theater as "Green Book" producers gave their speeches. Backstage, Lee said "No comment," when asked about the coronation of "Green Book," which detractors complain has a retrograde view of race. 

Oscars 2019: ‘Green Book’ Is Best Picture; Rami Malek and Olivia Colman Win - The New York Times

(拙訳)

 『グリーン・ブック』の作品賞受賞が決まり、スパイク・リー監督はうんざりした身振りをして、本作のプロデューサーが受賞スピーチをする中、会場から退場し始めた。舞台裏にてこの受賞について訊かれたリー監督は「ノーコメント」。この作品を、時代遅れな人種観を持つ映画だとして非難する者もいた。

 

 

 

備忘録:ゴダールの新作はどうなっているのか

ジャン・リュック・ゴダールの新作『イメージの本』が日本で一般上映される日もそう遠くはないはず、なのだがいまいちどういう映画なのか分かっていなかった。そこで、たまたま自分がぶつかった情報を軽くまとめてみた。

まず始点は蓮實重彦。以下のツイートは、今年1月にあったトークショー(本人監修の「ハリウッド映画史講義特集」における『拳銃魔』(1950年、傑作!)上映会にて)でのもの。

 夢中で年明け早々ゴダールを見まくる蓮實氏。

そして次は早稲田大学教授藤井仁子ツイッターならぬブログ上の一連の投稿。

(完全に余談だが、ちゃんと「つぶやき」ではなく「さえずり」と表現しているこのブログ投稿が本来の意味でのtweetということになる)

革命の日の朝の屑拾い日記」02022019

mgccinema.exblog.jp

 さえずり 02022019

「それでもまだ物語ることはできる」でずっときたゴダールがそれをやめたということか。芯となる人物も消えたことにまずはシンプルに驚くべきだろう。ゴダールは(彼なりの)創作のきっかけがわりと見えやすい人だが今度はよくわからぬ。いやむしろアラブと明言されているのがまるで信じられないのだ。

 さえずり 02022019bis

演技された老人の嗄れ声による遺言ごっこは相変わらずだが90近い爺さんにやられるとごっこなのかマジなのかが判別できないというのは実は重要なポイントだと思う。全篇が偉い人の真顔の自虐で笑っていいのかわからず困る感じ。昨年の騒動にからめていえば贋作といわれたほうがいろいろスッキリする。

さえずり 02042019
対位法の話をしながら流れるのはメンコン。むろんメンデルスゾーンがいなければバッハが再発見されることもなかったという途中の理屈が平気で省略されるがゆえの相変わらずの喰えなさではある。だがこのように簡単に解説できてしまうところにこそ引っかかるのだ。やはり衝撃力は目に見えて落ちている。 

さえずり 02042019bis
というかそのような衝撃力などはなから目指していない感じがこれまでと違いすぎる。どうも本気で自分の映画にアラビア語を響かせたいわけでしょう。意味はわからなくてもこの響きを聴けと。『映画史』のあのどこまで本気かわからないイタリア語讃歌とは全然違う。今さら西欧中心主義を反省? まさか!

さえずり 02052019
いちばん似ているのは『オリヴァー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』といえばさすがに怒られるか。その自作引用の仕方にも引っかかる。このときこの場面を撮ったのはこういうねらいでしたと作者本人に解説される感じが否めないのだ。めずらしく英語圏で絶賛の嵐というのがなんかわかっちゃう。

さえずり 02052019bis
英語圏だとこういうのはエッセー映画であっさり通じるし現にそう評されている。よかったですねえアニエスさん、ジャン=リュックがちょっとあなたに近づきましたよ。真面目な話、少し前までのゴダールならアラブに映画は存在しないと平然といいはなったはず。それが今回は何? 変わったってことなの?

最後はジャズミュージシャン/評論家の菊地成孔が今年2月8日のネット配信サイトDommuneでの番組でしゃべっていた内容を振りかえってみると、どうやら今回の作品はゴダールが今まで撮った映画の切り貼りのようなものに、本人のナレーションをかぶせたものらしい。しかも、スクリーンサイズが本編中に変わっていく。そして、試写一号で観ていた人たちの大勢はどこかのタイミングで寝ていたらしい(笑)

 

ディザスター・アーティスト 映画の中と外

 


The Disaster Artist Teaser Trailer #1 | Movieclips Trailer

 

 映画の中

 アメリカコメディ界の巨匠、ジャド・アパトーが世に問うた『40歳の童貞男』を「ブロマンス映画」(男友達の友情映画)元年とするならば、はや15年近くが経過したことになる。今なお同型の映画に関わり続けるジェームス・フランコは、本作でとうとう後世にカルト作"The Room"として知られることになる、かの「史上最大かつ最高の駄作」の裏話にまで手を出すこととなった。

 肥大しきったエゴとそれを見事なまでに反映する無能さが祟り、予想通り映画製作は難航を極める。しかし、最終的に主人公たちの元に残されるのは、一本の「愛すべきおバカ映画」、まさしくアパトーギャングが作り続けた映画と激しく共振するものなのだ。しかも本作では、監督・主演のジェームス・フランコの弟であるデイブ・フランコが助演を務めており、文字通りの「ブロマンス映画」に仕上がっている。

 

 映画の外

 しかしながら、ここまで力強い喜劇を作り上げたジェームス・フランコ本人は、一連の#MeToo運動の流れにおいて、セクハラ告発を受けている。『ディザスター・アーティスト』の主人公は、自身が是が非でも作りたい映画"The Room"の監督なのだが、彼がベッドシーンを自ら演じる際に本人がほぼ全裸で登場してくる。そこで問題がまさしくセクハラに該当するもので、主人公とその親友との間に亀裂が生じることとなる。実際のところ、そのベッドシーンにおける女優は、タフに現場対応しているのだが、そういった監督の責任は問われることもなく、再び作中で検証されることはない。そんな主人公を監督ジェームス・フランコは、期せずして、か否かは分からないが演じている訳だ。『ディザスター・アーティスト』におけるディザスター・アーティスト(散々な、壊滅的な芸術家)は、数奇な映画人としていわば愛される運命を辿ることになるが、そういった舞台映画を作ったジェームス・フランコを同列に見ることはできないだろう。

 

『ソウル・サーチング』(ソウルへGO!, Seoul Searching)

 友人に勧められてNetflixにて鑑賞。外国で生まれ育ったティーンが80年代の韓国でサマーキャンプに参加する群像劇。一癖も二癖もある人たちが、盛大にハメを外してバケーションを満喫する中、徐々に自分たちが隠してきた側面も見せるという展開はアメリカ青春映画の王道パターンだが、それをオールアジア系キャストでやっているのは新鮮だし見ごたえがあった。「この(ネット)世界の片隅」に見つかる良作であることは間違いない。


Seoul Searching - Official 15 Second Movie Trailer HD - Trailer Puppy

 2015年公開の本作は最近の80年代リバイバルの流れを汲んでいる。そして我々はジョン・ヒューズがあくまでも80年代当時に生み出した映画内世界にノスタルジックな形で生き続けている。80年代なるものは、Netflixドラマ『ストレンジャー・シングス』、大ヒットホラー映画『IT』、Netflixオリジナル映画『好きだった君へのラブレター』、あるいは日本での上映が待たれる『バンブルビー』など、枚挙に暇がないほどの作品に回帰している。

 このブログが何度も引き合いに出している『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が、50年代(つまり1985年→1955年)を一種の牧歌的時代として描き直しているように、80年代リバイバルはやはり30年前の時代をどこか懐かしんでいる。未だに80年代のポップカルチャーについてどう思えばいいか自分であまり分かっていないが、少なくとも今の映画に当時の古いジェンダー観や人種的偏見を無批判に持ち込むのだけはやめてほしいなあと思う。