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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

今回はおおむねシリアスなジュスティーン・トリエ『落下の解剖学』

 ジュスティーン・トリエ監督の『落下の解剖学』はカンヌ映画祭パルムドールを受賞した作品で、トリエ監督の長編作品としては4作目に当たる。物語としては、フレンチアルプスの山荘に息子と暮らす主人公サンドラの夫が謎の落下死を遂げる。やがて事故死の可能性は薄いと判明し、サンドラに殺人容疑が向けられるようになる。物語の構造上はミステリーのように思える。ただ、随所で既に指摘されている通り、本作の関心は夫婦という関係性の「解剖」にあり、全てのパズルのピースがはまるような謎解きにはない。

 この新作を鑑賞するにあたって、初めてトリエの過去作を見た。今回は152分という長尺だったが、今までの長編3本はどれも100分前後とコンパクトにまとまっているし、基本的にはコメディである。しかし、本作に今までの3作が詰め込まれているところが興味深かった。

 例えば、主人公が子持ちの既婚女性でかつ仕事でも成功を収めている点や、その主人公と夫との激しい衝突が生じる点についてはデビュー作『ソルフェリーノの戦い』(2013年)に、利害関係的に問題含みであるにもかかわらず、知人に弁護を頼んで事態が複雑になる法廷劇という点については『ヴィクトリア』(2016年)を、そして周りで起こったことを小説の題材にして反響を呼ぶ半面、作品の記述内容が作者の真意だと思われる点については前述の『ヴィクトリア』及び『愛欲のセラピー』(2019年)を想起させる。なお、英語とフランス語の使い分けは今までの作品で毎回出てくるテーマだ。 

 ただし、今回はそれらのテーマを性描写やダークなユーモアを極力使わずほぼ全て盛り込み、主人公がドイツ人女性という、フランス語があまり得意でないがゆえ、夫と息子に対しても英語で話さなければいけないという人物に変えることで新機軸を打ち出している。

 ちなみにだが、ここまでのトリエ監督のキャリアを概観する上で、個人的には本作が見ていて一番面白く重要な映画だと思った。本作は、フランス版ラブコメという枠組みの中に、弁護士でありながら、小説も書き、育児にも手を焼く主人公が、2つの裁判が同時並行に展開する。どちらの裁判も本当にハチャメチャな話で、前者は元夫がブログに自分のことを「創作」の体で赤裸々に書いたことを巡るもの、後者は知人がパートナーを刺したと訴えられた件を巡るものだ。主演は、ヴィルジニー・エフィラ(『ベネデッタ』)で、次作の『愛欲のセラピー』にも設定が若干似た人物として出演しているので、トリエ監督の作品群の中核を担うような存在だと言える。その『愛欲のセラピー』に映画監督役として出演し、とあるシーンで見事なキレ芸を英語で披露していたのが今回のサンドラ役のザンドラ・ヒュラーだった。 

 ちなみに、本作の原題はAnatomic d'une Chuteで、英訳だとAnatomy of a Fallである。"Une chute/a fall"は、もちろん第一義的には「山荘での落下」を指している。ただ、これは不定冠詞の"une/a"がついていて、"chute/fall"が指す対象が一つとは限らない。"Chute/fall"には、物理的な落下・降下だけでなく、精神的な意味での崩壊も意味する。そう考えると、「とある夫婦関係の崩壊の解剖学」と原題の意味を読みかえることもできる。

大事なところでかかるのはニーナ・シモン『Perfect Days』『ボーはおそれている』

 遅ればせながらヴィム・ヴェンダーズ監督の『Perfect Days』を見た。その前は、アリ・アスター監督の『ボーはおそれている』を見ていたので、期せずしてニーナ・シモンの曲が肝心なところに二本連続でかかっていたので少し驚いた。

 

 

(以下、両作のネタバレあり)

 

 

"Feeling Good" in『Perfect Days』

 早朝の陽光を顔に受け、涙ぐんだり笑顔に戻ったりを繰り返す主人公。彼の中には「良い気分(feeling good)」だと言えない不穏さと、平穏な日常への回帰の両方が渦巻いているように思えた。

 

"Isn't It a Pity" in 『ボーはおそれている』


 この映画が「オデッセイ・スリラー」と紹介されていたのはうなずける。ホメロスの『オデュッセイア』が「帰郷までの壮大な道程」の話なのだが、いざ帰郷してからもまた大変なことになるからだ。この曲はその帰郷後にかかり、そこで母親の支配がどのような形で展開していたのか明らかになる。

 

 

まさかの"Somebody That I Used to Know" 『ザ・ガーディアン/守護者』 

 思いがけない形で、とても懐かしい曲を映画館で聞くことになった。

 "Somebody That I Used to Know"である。2011年の曲なので、10年以上も前のヒットだということで驚いた。『ザ・ガーディアン/守護者』という韓国映画でこの曲がいわばライトモチーフとして多用されていた。と言っても、使われる部分は、歌唱が始まるまでのイントロだけで、短調ではあるが、木琴の伴奏も伴って場合によっては滑稽な印象も与えるような音楽だと思う。

 この映画自体は、出所したての主人公が足を洗おうとしていたものの、元恋人との間に生まれていた娘を誘拐されたため、自らの過去と対峙せざるをえなくなる犯罪映画で、筋自体は典型的なものだ。ただし、100分もない本編で先ほどの音楽が、主人公の敵である二人組の殺し屋が登場する際に何度も使われており、妙におどけたところもある。主人公はそのうちの一人と車内で交渉して娘を探し出す展開もあり、ロードムービーのような一面も見せる。

 これは主演チョン・ウソンの初監督作で、いわば俳優の監督デビュー映画がこのこじんまりとした味のあるジャンル映画である。彼がイ・ジョンジェとダブル主演した骨太な(しかしユーモアは極力排した)政治サスペンス大作である『ハント』(2023年)が、イ・ジョンジェの初監督作であることを考えると、大変対照的である。

今年のフランケンシュタイン系映画はまだあるはず『哀れなるものたち』『Lisa Frankenstein』

 ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演の『哀れなるものたち』(Poor Things)を見た。この監督主演タッグは短編も入れると三度目の共演らしい。自分もいいコンビだとは思う。『籠の中の乙女』『ロブスター』『聖なる鹿殺し』は後追いで、『女王陛下のお気に入り』は劇場で見たことがある。興味深い映画を撮る監督だし、毎回新作を見ようとは思う。また、鬱屈とした物語の中に、突然とあるボクシング映画が「侵入」し、全てを変えてしまうような展開を用意するところに当初驚きと喜びを覚えたこともある。ただ、やはりその独特な映像表現をどこか楽しめないところも毎回あって、勝手ながら両義的な思いを持っている監督ではある。その今までの思いを踏まえると、今回は奇想天外な話で、相変わらず性的表現がどぎついものの、物語全体として大変観やすい映画になっていて、割と前向きな話になっている。

 話の大枠にあるのは、周知の通り「マッド・サイエンティストが死体を「人造人間」(= 怪物)として蘇生させる」という、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818年)、あるいはユニバーサルの1930年版『フランケンシュタイン』によって知られるようになった定型である。ただ、ここで重要なのが小説ではフランケンシュタインの怪物は、極めて高度な知能を持つ思索する存在である点で、そこは主人公ベラ・バクスターにも引き継がれている。

 『哀れなるものたち』は、引っかかるところはあるにせよ、想像以上に壮大な物語で、美術も素晴らしく、とても完成度の高い映画だと感じた。その一方で、アメリカではLisa Frankensteinという映画が近日公開されるとのことで、そちらが見たくて仕方ない。こういったフランケンシュタインがベースの映画がまだ今年あるということで、やはりこれはセットで見てみたい。

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 監督はロビン・ウィリアムズの娘であるゼルダ・ウィリアムズ(本作がデビュー長編)、脚本はディアブロ・コーディで、これは期待せずにはいられない。ディアブロ・コーディは、『JUNO/ジュノ』(2007年)で一躍有名になった脚本家で、ジェイソン・ライトマン監督と組んだ『ヤング≒アダルト』(2011年)や『タリーと私の秘密の時間』(2018年)などの脚本を書いている。

 今回の映画は、恐らく『ジェニファーズ・ボディ(2009年)と近いトーンのホラーコメディなのだろう。『ジェニファーズ・ボディ』はカリン・クサマ監督、コーディ脚本・製作総指揮、そして『トランスフォーマー(2007年)でこれまた一躍有名になったミーガン・フォックス主演と、かなり気合の入った企画だったはずなのだが、商業的にも批評的にも振るわなかったものの、近年再評価が進んでいる、言わばカルト映画である。この映画はミーガン・フォックス演じる高校生がサキュバスとなり男たちを次々と餌食にしていくという血みどろな展開を見せる映画だったので、恐らく『Lisa Frankenstein』は予告編を見る限り、スラッシャーホラーの形式に沿って血みどろな展開を見せてくれるようだ。

 

 

2023年の映画ベスト10

 

2023年のベスト10は、

①バービー 

②パーフェクト・ドライバー 成功確率100%の女

③別れる決心

④フェイブルマンズ

⑤ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

⑥ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー

⑦SHE SAID/シー・セッド その名を暴け

Blue Giant

スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース

ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE

 

 今年は映画館で新作を79本、旧作を2本見た(⑨は二度鑑賞)。80本以上見られたのは初めてだった。①に関しては、ほとんど何も分からないまま見たので、初見時の衝撃は今でも忘れられない。社会批評性をしっかりと持った映画であるが、それと同時に本作はそもそも荒唐無稽なアメリカのコメディとして大いに楽しめる娯楽映画だというところが良かった。今年見た韓国映画としては例えば『非常宣言』のような航空パニックものから、『小説家の映画』のようなミニマムな作品まで、幅広い作品群に触れることができたが、その中でも、とりわけ絶妙な塩梅の②が印象に残った。③の骨子自体はノワール/メロドラマとしてもいわば王道であると言えるかもしれないが、スタイリッシュな演出と、2020年代のドラマとして身の回りの電子機器の使い方が極めて効果的だった。あと個人的には、本筋を駆動させるために登場する別の事件の顛末を、おかしみをもってソリッドに描く巧さにうならされた。

 今年はとにかく殺し屋映画が多かった感があるが(『ジョン・ウィック4』『ザ・キラー』『THE KILLER/暗殺者』『キル・ボクスン』『バレリーナ』など)、経済的な悩みを抱えるのは⑥の主人公2人だけだった。そんなお金のない二人に立ちはだかる敵は同世代の兄弟コンビで、彼らの社会的ステータスは主人公たちよりもさらに低い。本作はコメディでありながら、殺し屋の生活という非日常から、日本のリアルな日常が伝わってくる。もちろんアクションシーンが見どころの映画なのだが、こういった陰影のつけ方に他の類似する映画と異なる側面が見出せる。

 その反面、同じアクションものの⑩の本筋はほとんど意味を成していないし、イルサの扱いはどれだけの言い訳を重ねてもガサツだった。また、本編の長さはどうしても若干気になった。しかし、それでもCGに頼らないアクションに拘り続け、回を増すごとにスケールアップしていくところに何らかの希望を見出せずにはいられなかった。

 なお、次点は、『ソウルに帰る』『グランツーリスモ』『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』『オマージュ』『サーチ2』だった。正直なところ、例えば④が楽しめるかどうかは今までのスピルバーグ作品や彼の人生を知っているかどうかによって左右される側面があるし、⑦で言えばワインスタインを巡る一連の出来事、⑨で言えば今までのスパイダーマン作品の知識量によって随分見え方が変わってくるかと思う。その点、上の5作品はどれも単独の作品としてとても見応えがあった。

 また、配信で見た新作の中は、『ライ・レーン』『フェアプレー』『ボトムス ~最底で最強?な私たち~』『ソルトバーン』がとりわけ良かった。

 

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2023年10月の3点

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(マーティン・スコセッシ監督、アメリカ)

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20世紀の白人による先住民の簒奪に迫る題材、200分を超える長尺、Apple配信映画としては珍しい劇場公開といった要素が揃う映画もなかなかないだろうし、本編自体に引き込まれつつ、複雑な感情を抱かざるをえない物語であったのもたしかだ。

 

ザ・クリエイター』(エドワーズ・ギャレス監督、アメリカ)

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良くも悪くも監督のやりたいことははっきりと伝わってくるオリジナルSF。

 

イコライザー・ザ・ファイナル』(アントワン・フークワ監督、アメリカ)

秋のホラーとしてうってつけだった。2よりはこちらの方が断然好みだった。できることならこの路線でもう2本は見たい。

『フェイブルマンズ』気付くのはいつも後:主人公が撮った劇映画と記録映画(映画についての映画③)

 

巨匠スピルバーグ、初の自伝的作品!映画監督の夢叶えた原体験/映画『フェイブルマンズ』予告編 - YouTube

 スティーブン・スピルバーグによる『フェイブルマンズ』は、スピルバーグ少年が映画に目覚め、監督を目指すようになるまでの実体験を基に作られた映画である。スピルバーグの姓が本作ではフェイブルマン(Fabelman)、つまりお話、物語(fable)を想起させるものに変更されている。この映画を見て、スピルバーグ家の親子関係の「真実」を見出すことは出来るかもしれない。しかし、これはあくまでも「(半)自伝的映画」であって、完全に事実に忠実な伝記的記録ではないことを踏まえた上でいくつか気づいたことを以下に述べたい。

 まず、この映画は見たくないものも見せてしまう力を映画は秘めている、と感じ取れる作品だとは思うけれど、劇映画と記録映画とを峻別して考えた方が色々考えられて面白いと思った。

 玩具の列車衝突シーンの撮影から始まったサム・フェイブルマンの「劇映画」作りは、妹たちがミイラになったり、殺されたりする恐怖映画などを経由し、西部劇、そして"Escape to Nowhere"という戦争映画を撮ることで一つの到達点を迎えることになる。粗くまとめると、どの作品もいわば暴力を描いたもので、題材自体は、丁寧な人間ドラマなどでなく(あえてそういった作品を子供が撮りたいとは思わないが)、決して穏やかなものでない。

 しかし、脚本も編集も演出も彼一人が担っており、映画制作のコントロールは彼が握っている。映画の魔法や驚異に魅了され、次々と新作を撮るサムは腕をめきめきと上げていることが伺える。戦争の絶望を活劇という形で描くサムは、逆説的に心の平穏を手にし、生きる活力を得ているとさえ言えるかもしれない。

 ただ、当然ながらサムがカメラを向ける先は、フィクション映画のための被写体に限らない。サムの家族をホームビデオという形で撮影する場面が本作では何度も描かれる。他の評論でも度々クローズアップされるように、そのような記録映像がサムの家族の真実を露わにしてしまう。最も印象に残るのは、父親に言われてキャンプ先の家族を撮ったホームビデオの編集過程で、撮影時には全く気付いていなかった真実に行き着いてしまう場面だろう。これが記録映像である以上、カメラの前で起こることをコントロールできない。何気ない風景にも衝撃の事実が映り込んでしまうが、それが見る者によって読み取られるのはいつも事後であるという二つのことを教えてくれる場面であろう。

 そして本作のクライマックスはプロムである。そこでサムはあっけなく恋人に振られるも、彼の制作した"ditch day"(学年一同による非公式のサボり日)の映像は大好評であるところが描かれる。しかし、この一見無邪気で楽しそうに見えるこの記録映画は、映画の恐ろしさが何たるかを如実に教えてくれる。まず、彼は劇映画制作から得た技能を生かして、溶けたアイスクリームを鳥のフンに見立てるといった「演出」を自作に忍ばせる。ここに彼の劇映画と記録映画の両方を取ってきた経験が発揮されたと言える。それと同時に、恐ろしくも、純然たる記録映画が存在しえるという幻想を打ち砕くものでもある(そもそも編集がある時点でそこには人為が働いている)。

The Fabelmans Review - IGN

 そして特筆すべきは、ユダヤ系のサムを差別しいじめるローガンが、映画で描かれる自分と、現実の自分との歴然たる差に打ちひしがれ、惨めになっている点であろう。鍛えられた身体を賛美するかのような流麗な画と編集により、いじめっ子であり、自分の恋人に浮気をするような人間があたかも英雄のようにクラスメイトから称揚されることにローガンは違和感を抱きえないのだ。廊下のロッカー前で問い詰められるサムも、当初はカメラを向けただけ、などと言うが、結局はローガンを良く見せるような映像にしたことを認めている。しかし、まさかローガンが映像をたしかに読み解き、動揺のあまり若干の涙すら目に浮かべるとは予測できなかった(サム曰く、自宅の猿よりバカなはずなのに!)。ここに純粋無垢に思える映画の恐ろしい力を観客の我々は目の当たりにする。ここでもサムが気づくのは上映後であった*1

 このすさまじい場面だけで一見の価値がある映画だと思うが、エンディングではジョン・フォードとの邂逅が描かれるのだが、ここでも絵の説明を求められる下りを二度繰り返すサムは同じ過ちを犯す(「違う違う、地平線はどこにある?」)。ここでも彼は目の前に広がる映画の画が何たるか、若干気づけていない節があると指摘できるかもしれない(単に緊張していたからというのはある)。

 自分が考えるに、本作において、サムが手掛ける劇映画は創作の喜びをもたらすものである一方で、記録映画は自分でも気づかないものが映り込んでいたり、思いがけない効果をもたらす映像形態なのである。そしてそれにサムが気づくのはいつも後である、ということをこの映画を描いている。そして、いつも事後に理解するサムの映画人生はまだまだこれからなのである。

 

 

 

*1:しかも、自分の映画でこのことは絶対に使わないから!といったことを本作中に宣言してしまうメタ性には笑いを禁じ得ない