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ポークとビーンズ

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

過去⇔現在~『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

 主人公は、とにかく、書く、走る、踊る。本作は、アクションに満ちたシークエンスから始まり、その物語を駆動する力を落とすことなく、4姉妹の人生をしっかりと描いていく。本作は、単なる時系列順に物語る直線的な構造とは異なり、しっかりと過去と現在とがどのように対照的に立ち現れていくのか、これでもかと言わんばかりにはっきりと示す。おそらく過去は右から左、現在は左から右への方向を意識したショットで組み立てられていた。現在における会話の断片から、過去に埋め込まれた伏線を遡ってたどっていくことになるが、その作業自体は一観客として全く苦にならなかった。過去(オレンジ)と現在(青白)の色が合流する、着地点を最後に見せるところはとても良かった。ラストショットは現在の色調を主に使っていながら、壁の色は明るいオレンジ。あれは過去と現在の融和点(妥協点ではなく)であったと信じたい。 

 ちなみに、「どっちがどっちの話か分からん」とぼやくアカデミー会員がいたようだが、そのような自分のリテラシーの低さを、たとえ匿名とは言えど堂々と示してしまうことを恥とも思わぬような類の人間が、恐らく世界で最も有名な映画賞の組織内にたしかにいるという事実だけは心得ておいた方が良い。

 それとは別にティモシー・シャラメはその圧倒的な美貌ゆえに、自身の演じる性格の危なさ(というか害悪)をあまり意識させないのがすごい。というか端的に恐ろしい。いうなればファム・ファタール(運命の女)ならぬオム・ファタール(運命の男)だろう。自身の出演作におけるティモシー・シャラメ、0を「素敵な恋する青年」、そして10を「周りを破滅させるヤバい奴」だと規定して、「シャラメ・スケール」を勝手に作ってみる。そのスケールにおいて、"Call Me by Your Name"のシャラメは3、"Hot Summer Nights"の場合、8か9(あれ以上"ヤバい"役と言えば、シリアル・キラーくらいでは?)だとすると、本作の彼は6か7だとするのが筆者の意見である。

ブラッククランズマン→ザ・ファイブ・ブラッズ

Jasper Pääkkönen, Jarrod LaBine, and Paul Walter Hauser in BlacKkKlansman (2018)

スパイク・リー監督の『ブラッククランズマン』で本当にクズかつ危険で、見る者に強烈な印象を与えたであろう左の二人が、

 

Mélanie Thierry, Jasper Pääkkönen, Paul Walter Hauser and Jonathan Majors in "Da 5 Bloods."

同監督のNetflix映画『ザ・ファイブ・ブラッズ』では、その二人は一応良い人?役で登場していたのが、先日見ていて記憶に残った。最近のスパイク・リー、すごく調子が良い。映画自体は面白かったけど、やはり長いので配信で見るのはあまり向いていない気はした。

 

ありえたかもしれないもう一つの「スター・ウォーズ」 『ブリグズビー・ベア』

 2018年上半期に観た映画の中でも特に好きな映画は『パディントン2』だった。そして下半期はこの映画に決まりなんじゃないか、と鑑賞時、既に思っていた。どっちもクマ映画になってしまっているけれど、後者の方が現実そのもの以上にフィクションというものに対してかなり多くの示唆を与えてくれるのはたしかだろう。

ブリグズビー・ベア (字幕版)

 

 

 

 (この先は結末部分に触れています)

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コロナ禍におけるアメリカのテレビ番組とポッドキャスト 

 このブログは主に映画についての記事がほとんどであるが、最近だと映画鑑賞と同じくらい、あるいはそれ以上の時間を恐らく海外のポッドキャストを聞くことに費やしていると思う。

 ラジオ好きなら理解してもらえると思うが、何かをしながらちゃんと楽しむことが出来る、という点がかなり大きい。映画だとスクリーンの前にずっと座っていないといけないし、視覚と聴覚の両方を映画の方に完全にゆだねないといけない。ポッドキャストだと、何か機械的な作業をしている間でも聞けるし、外を歩いていても聞ける。しかも、基本的にポッドキャストというものは無料でダウンロードできることが前提条件になっている。

 このような理由で普段から結構ポッドキャストを利用しているのだが、COVID-19の世界的感染拡大により、メディア業界も大々的かつ代替的な適応を迫られている。例えば、アメリカの人気コント番組サタデー・ナイト・ライブでは、出演者がZoomを使って、コントをするようになった。この特別な形式で3回放送を行ったのだが、1回目の放送は相当ぎこちないものだった。誰もどうしたらいいのか分からない感覚が、皮肉や風刺ではなくかなり直接的に伝わってきた。それから恐らく制作側もこの形式に少しずつ順応できるようになり、番組の精度はかなり上がっていったように思うが、それでも一種の限界が露呈するような試みだった。

 その日のニュースをジョークを交えて振り返ったり、著名人を招いて話すトーク番組も、司会者は自宅から出演している。これもスタジオからの笑い声があるかないかの差は相当大きく、ジョークを言った後のぎこちない間に、観ているこちらも未だに慣れない。(その反面、海外youtuberはこの手の動画の雰囲気をどう作り出すか、十分に心得ている)それだけテレビというメディアは、常に何かしらの動画を見せ続けないと(紙芝居のようにスライドだけ見せられたら興ざめだろう)番組が成立しないという事実に改めて気づかされる。

 その反面、アメリカのポッドキャストは音声メディアであるという特性からか、まだこのパンデミックにうまく適応できている感はある。そもそも番組の形式上インタビューを遠隔で行っていたり、複数の出演者が別の州で同時に話していたりする場合も結構ある。あと、先述したように音声だけなので、自宅を見せる必要もない。もちろんほとんどのポッドキャスト番組が、いかにこのグローバル的危機により、制作が困難になっているのかについて詳しく説明しているが、音声メディアの持つ柔軟性ないしその強みを再自覚する機会になったと思う。

(なおこの投稿で言及しているポッドキャストとは、基本的に公共ラジオ局の制作している番組に限定している)

 

 

 

 

 

『ロケットマン』と『ボヘミアン・ラプソディ』


Rocketman (2019) - Official Trailer - Paramount Pictures

 

 『ロケットマン』を見たが、大変面白かった。セックスドラッグロックンロールの三拍子が揃ったロック映画だった。シビアなところもしっかり描いていて(それでもえげつないところはいくらでもあっただろうが)ロック映画としてかなり見ごたえがあった。

 同監督の『ボヘミアン・ラプソディ』が一種のカラオケ大会、あるいはPV集になってしまった一方で、こちらは主演俳優がメインボーカルを務め、大胆なアレンジを施したエルトン・ジョンの楽曲群を歌い上げる。

 物語のスパンが長く、次々と時代が変わっていく点は『ボヘミアン・ラプソディ』と同じだが、この映画の場合、そもそも現実と妄想の境界が曖昧だ。時系列もバラバラで、子供時代に自身の全盛期の楽曲を本人が歌い出したり、急に大人になってまた子供に戻ったりするシーンがある。なおかつ本人がアルコール中毒かつドラッグ中毒者であるため、観客も次の場面に移行する度に、彼のバッドトリップを追体験することになる。しかしこれは唐突な物語展開を逆手に取った効果的な手法だと思った。

 ここでも事実とは異なる展開がところどころにあって、脚色があるのは明らかだ。しかしながら、本作における脚色はボヘミアンラプソディとは随分違う。そもそもこの作品は、ほとんど「伝記映画」ぶっていないし、事実を再構成して見ごたえのあるエンターテインメントを作ろうとする気概に満ちている。『ボヘミアン・ラプソディ』におけるフレディ・マーキュリーLive Aidに病を押して出演したことになっているが、HIVに感染していることが発覚するのはコンサート後のことであった。一応言っておくと、脚色という行為自体を非難している訳では全くない。事実をベースにしていても、映画が何から何まで伝記的事実に忠実である必要性はない。映画が良くなるのなら、変更を加えることはむしろ映画のためだ。ただ、脚色したことによる、意味ないし効果についてはしっかり考えないといけない。

 『ボヘミアン・ラプソディ』のみを見る限りでは、フレディー・マーキュリーは、自身の奔放なライフスタイルにより感染したことが一種の因果応報のように解釈できてしまうのではないか。HIV/AIDSとは、同性愛者のみが感染する病気では当然ない。しかし、AIDS危機が起こった1980年代から、異性愛とは異なる性的指向による「天罰」としての認識が大変強かった。例えばスーザン・ソンタグが『隠喩としての病い』で論じているように、フィクションにおける病の表象は、社会で共有される認識を反映していることが多いし、そこには比喩として別の意味が付随されていく。そういう意味では、あの映画におけるラストの展開の持つ意味は重い。Live Aidの再現(フル尺ではないが、そこは大した問題ではない)にこだわっていながら、あの映画は故人をある意味裏切った訳だ。

 最終的には『ロケットマン』とは全く関係のない話になってしまった。クイーンを使うなら、エドガー・ライト監督くらいのクイーン愛と機転が欲しいところだ。

 

 

 

 

 

 

ビール映画として見る『愛がなんだ』

 

『愛がなんだ』をようやく見た。これは屈指のビール映画なのではないか。そもそもそんなジャンルはないことは重々承知の上だが。

 主人公田中テルコは金麦(350ml&ロング缶)、マモルはプレモル、ナカハラはエビス(缶&瓶ビール、画像なし)、例外的にすみれは主にワイン。   

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マモルと一緒にいるので飲むのはプレモル

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昼から金麦

 これだけで、例えばすみれが一番お金には困ってなさそうな(というか気にしてなさそうな)感じが自ずと伝わってくる。テルコとマモルは話し相手もいない中結婚式の二次会でちびちびワインを飲んでいたところ意気投合して、二人で一緒に大衆居酒屋で朝までお酒を飲むような関係になったのに、すみれが出てきてから、またテルコは再び気まずい中ワインを飲む状況に置かれるようになったことになる。勝算のないマモルも同じ「ほろ苦い酒」を飲んでいるだけにすぎないのだが、本人はまだそれに気づいていない。 

 金麦を終電がなくなったあとの夜道でも、家でも、仕事を辞めた直後の公園でも飲んでいるテルコは、人にお酒を買ってあげるときはきちんと銘柄を考えている。ただ、人に買う酒(マモちゃんに買うプレミアム・モルツ、あるいは葉子の実家に持っていった大吟醸の日本酒)を常備しておくほどの経済力はないのかもしれない。会社員を辞めてしまうので、より一層経済状況は厳しいのだろう。

 そう考えると、テルコの友人である葉子は周りに提供してもらうビールばかり飲んでいる。テルコの自宅の金麦、あるいはナカハラに買ってこさせたエビス。食べ物はテルコによくお裾分けしているが、いつもそれは母親の作った料理だ。飲食の面で何の不自由もしていないが、自分特有のビールが割り振られていない。この設定の意味は決して軽くないのではないか(自らのアイデンティティが定まっていないことを含意している?)。

 ※ちなみに金麦は厳密にビールではないのかという指摘もあるかもしれないが、あくまで広い意味でのビールとして捉えている。

 

自宅二本立て#2 [『赤ちゃん教育』(1938)&『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)]

赤ちゃん教育』(1938)と『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)も外せないコメディの名作です。みんなテンションが異常なほど高くて何言ってるのか分からないマシンガントークが特徴です。特に『赤ちゃん教育』のキャサリン・ヘップバーンがとにかく素晴らしくて、去年初めて見たときには感激のあまり泣きそうになりました(涙腺が緩む類の話ではないんですが)。

 


Bringing Up Baby (1938) Official Trailer - Katharine Hepburn, Cary Grant Movie HD

 


'His Girl Friday' | Critics' Picks | The New York Times

 


His Girl Friday Comedy 1940 Cary Grant, Rosalind Russell & Ralph Bellamy HD

(版権が切れているため、『ヒズ・ガール・フライデー』は英語字幕しかありませんが、youtubeにて無料で視聴できます)

ykondo57.hatenablog.com