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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』やさしさと加害性

 「おもろい以外いらんねん」「きみだからさびしい」など繊細な感性で紡がれた作品で知られる大前粟生の小説「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を映画化。

京都にある大学の「ぬいぐるみサークル」。「男らしさ」や「女らしさ」というノリが苦手な大学生の七森は、そこで出会った女子大生の麦戸と心を通わせる。そんな2人と、彼らを取り巻く人びとの姿を通して、新しい時代の優しさの意味を問いただしていく。ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい : 作品情報 - 映画.com

 

鑑賞前に何となく眺めていたポスター。
右端の白城だけがこちらを向いているのが大変象徴的だ

 鑑賞前にいくつかのインタビューや映画評は読んでいたはずなのだが、その想像を超えてくる映画だった。宣伝等で伝わってくる「やさしさ」とは、また異なる「やさしさ」の諸相を観客は感じることになるはずだ。今年見た様々な映画を振り返ってみる度に、この映画についても繰り返し考えることになると思うくらい心に刺さったし、引き込まれた。(なお、以下の文章では完全にネタバレありです)

 

「ぬいサー」との出会いまで

 本作はどこかの家の風呂場のショットから始まる。それはやがて主人公の七森が、拾って(そして園児からもらった)ぬいぐるみを洗うためのシーンにつながることが分かる。彼は、クラスメイトの女子に告白されるも、自分には恋愛感情が分からないためそれを断る。引きのショットでは、二人の姿の手前に園児が遊んでいる様子が映し出されていて、そのうちの一人がぬいぐるみを落とす。それを拾おうとして、目の前の女子を突き飛ばすような恰好になってしまう。ここで既に七森は生身の人間よりもぬいぐるみのような対象の方に思い入れが強い人間なのではないか、と本作のあらすじを知っている観客は勘ぐってしまう。

 先述したように、本作ではぬいぐるみ以外にも、ちょっとしたモノ(小道具)が効果を発揮する。例えば、七森と麦戸とを引き合わせるのは、風に吹かれるお菓子の小さなゴミだ。二人とも、自分のものではないが、ゴミをきちんと捨てようとする姿勢が見え、二人の人柄が伺える。しかし、二人とも既に入学の歓迎会での空気にあまり馴染めなかったようだ。この時点では、麦戸が会話をリードしていて、彼女の方が快活な印象を与える。

 そんな二人はある日「ぬいぐるみを作るサークル」を見学するのだが、その触れ込みは恐らく世間の目から自らを守るための隠れ蓑で、実態は「ぬいぐるみとしゃべるサークル」であることが判明する。しかし、二人は結局入部し、「他人がぬいぐるみとしゃべっている内容は聞かない」「ぬいぐるみは大切にする」という二つのルールを守って一、「ぬいサー」に馴染み始める。ただし、麦戸がぬいぐるみに面白可笑しい話をしている一方で、七森は話しかけない。ここに微妙な差があることは重要な点だ。

 

白城との「恋愛」

 ここまで話を述べると、物語は二人をずっと追っていくのかと思える。しかし、麦戸は一人の女性として社会に生きることに恐れを抱き、大学にも通えずにいた。ここで三人目の新入生こと白城が大変重要な役割を担ってくる。彼女はぬいぐるみと話しかけないし、序盤では皆がしゃべっている中、一人で読書をしている。金子監督が発言しているように、白城はこのサークルに対して「客観的視点」を持っている、おそらく唯一の存在だと言える。

 そんな白城に七森は告白して二人は一応付き合うことになる。その前の喫茶店の場面で、サークルの女性4人が恋愛話をしている中、切り返しのショットのフレームから切れている唯一の男性七森は共鳴できていない。要するに七森は自分がおそらくアセクシュアル・アロマンティックであることをまだはっきりとは認識しておらず、恋愛を「試してみる」のだ。

 しかし、やはり七森が期待していたようなことは起こらなかった。そんな二人の価値観が衝突する長回しのショットが素晴らしかった。4階にあるサークルの部屋から二人は並んで階段を降りつつ、会話するのだが、女性を蔑視する社会に適応してサバイブしてきた彼女に対して、七森はある種の正論を問いただし始め、階段を降り切ったところで、キーンとしたノイズが徐々に大きくなり、口論になってしまう。

 

2つの空間に生きるー白城による社会での生き方

 その口論の原因は、白城の所属しているサークルは別にもう一つあり、そこでは「セクハラ」的なことが横行しているということだった。それならなぜ辞めないのか、と問いただす七森の言葉はある種ごもっともではあるが、打たれ弱くなってしまえば社会で生きていけないから、と彼女は返す。つまり彼女は2つの空間を行き来して、彼女なりの「バランス」を取ることで彼女は大学生としての生活を成立させている。

 この言わば彼女の越境行為は、学園祭での彼女が作った「ぬいぐるみ」に象徴されている。「ぬいぐるみ」といっても、それは学園祭のマスコットの着ぐるみである。「ぬいサー」は学園祭向けに各自でぬいぐるみを作っていたが、白城は参加せず、別のサークルで、「男子が手伝ってくれない」仕事を率先してこなしていた訳だ。これを終盤では彼女が手洗いしているところから、彼女もこの自ら作ったものを「ぬいぐるみ」として、問題のあるサークルから取り返すことができたと考えられるだろう。つまり、徐々に彼女が、社会の持つ有毒性を孕む集団から距離を置くことができたとも取れるのだ。

 

対話をするということ、あるいは人間の加害性について

 あらすじの説明が長くなってしまったところで、本作における「対話」の意味について、加害性という言葉を補助線に考えてみたい。あえてここでは「会話」ではなく、対、つまり二者間のコミュニケーション、ということを強調する「対話」という言葉を用いている。それはもちろん監督が自身のコメントで用いている表現(加害性という表現もそうである)ということもあるが、その意味については後に触れる。

 大概の人間は自らの加害性に気付いていない部分があるだろうし、少なくとも「ぬいサー」の外の人間はそのような無神経な人間である、と思ってしまう(ような異化作用の力がこの映画にはある)。「ぬいサー」の人々は(全員ではないが)自他の加害性にかなり敏感である。結局のところ、七森と麦戸に大きな心のダメージを与えるのは、加害性への意識である(念のため言うと「加害者意識」ではない)。

 まず、麦戸の場合、電車内での痴漢を直に目撃してしまったことが不登校の発端となり、たまたまイヤホンをしていなかった七森が麦戸の言葉を聞いてしまったことを最後に麦戸は外に出られなくなる。原作小説と異なり、本作ではほとんど全てが時系列順に語られていくが、おそらくはこの一か所だけがフラッシュバックで語られており、より印象に残る効果的な作りとなっている*1

 本作のクライマックスとも言える場面で麦戸が七森に告げるように、彼女は傍観者としての加害性を自覚すると同時に、その男性がもたらす加害が自分にも向けられるかもしれないという恐怖を内面化することで自室の外に広がる世界と接点を持てなくなる。ここでは単に被害/加害の二分法では割り切れない複雑な思いが彼女の中にうごめいている。本人が「やさしいことは弱いこと」かもしれないと口にするように、本作における「やさしさ」とは、自分で自分の首を真綿*2で締めるような自責の念に転換する可能性が示唆されている。

 そんな麦戸に対して、七森は授業のノートを持っていき、インターホン越しに少しずつ対話を試み、つながりを絶たないことで彼女が外に踏み出すきっかけを生み出す(これは一種の七森の贖罪行為だと言える)。では七森が「女性に助けの手をさしのべる"やさしい"男性」として一面的に描かれるのかと言えばそれはまた違うのだ。

 七森は、愛犬の死や地元の同級生との偶然の再会を通して、自分が傷つけられる存在、そしてそのような背景を知らない女性たちにとっては傷つけうる存在であることを認識し、麦戸と同じく不登校になってしまう。今度は、麦戸が七森の元を訪れる。直接台詞で言及されることはないが、彼の一人暮らしの家は年季の入ったところで、オートロックで小ぎれいなマンションの一室に住む麦戸の家とはかなり対照的である(白城の家も麦戸のそれに近い)。二人の経済格差が暗示されており、彼なりの「生きづらさ」も示唆される舞台設定だ。

 「幽霊になりたいから金髪にした」と話す七森はたしかに亡霊的な容貌を呈しており、彼の住処もその不穏さを期せずして演出している。思い返せば、学祭の時も彼が完成させたぬいぐるみは「おばけちゃん」であり、その創造主が亡霊化しているのだから、これも不穏な予兆だったと同時に、彼の無意識が表出していたとも言える。そして先述したように、七森も加害性への意識を強めることで、心が荒んでしまったと言える。ではこの七森を立ち直らせるきっかけを与えるのは何か。やはり「対話」である。

 麦戸はぬいぐるみとの対話を通して、生身の人間である七森との対話に踏み込めるようになる。七森はぬいぐるみにすら自分の正直な気持ちをぶつけられずにいた。そこで詰まってしまった気持ちに押しつぶされそうになったと推定するなら、今回この場面でとうとう七森は自分の感情に言葉を与える機会を得られたと考えられる。

 もちろん、本作が描くのは、人に話ができれば良い、という単純なことでは決してない。そもそもぬいサーの部員たちが語りかける対象をぬいぐるみに選んでいるその理由は、例えばサークル副部長の鱈山が説明するように、自分の中にあるものを表出することで聞き手が傷つくかもしれない、という一種の暴力性(あるいは加害性)に自覚的だからなのだ*3

 恐らく対話を進める上で肝心なのは、そこに合意や信頼できる関係性があるかどうかなのだろう。麦戸は自分の正直な気持ちを丁寧に言葉にして七森に伝えたからこそ、当初は胸中を打ち明けられなかった七森も徐々に自らの話を始める。麦戸のぬいぐるみとの対話も、そのぬいぐるみから応答をもらったと言っており、そこには一方通行ではないコミュニケーションが生じているし、それがある種双方の信頼に基づくものだと仮定できなくはない。

 ここで対話を終えた二人に何らかの明確な解決策が生まれたとは言い切れない。とにかく対話の回路を開いておくこと自体が重要なのだろう。一連の対話が終わったあと、二人はテレビで格闘ゲームをしているのだが、よく見ると双方のキャラはジャンプしているだけで全く戦っていない。殴りあうのではなく、二人のキャラが一緒にその場を共有していること自体に意味がある。

 

やさしさだけで全ては解決するのか?

 最後に、ラストの台詞について一考してこの文章を締めくくりたい。上記の二人の対話を経験したあとで、観客我々はぬいサーの部室に再び辿り着く。その部室の扉を開けるのは、内向的に見える一人の男子学生だ。突然うずまってしまう彼に温かい声を七森は掛けてあげる。ここがラストシーンでも違和感はないだろう。しかし、カメラはぬいぐるみの主観ショットに変わり、白城の「やさしすぎるんだよ、傷ついていく七森と麦戸ちゃんたちを、やさしさから自由にしたい私は、ぬいぐるみとしゃべらない」*4という内的独白で映画は終わる*5

 このセリフがあるとないとでは、相当本作の意味が変わってくると考えられる。要するに、「やさしさ」という行動原理の下、他者の話に耳を傾け、互いは「大丈夫でない」ことを確認して、温かい言葉を差し出すだけでは全ての抜本的な解決にならないのだ。そもそも、他者への感受性や共感力が高いからこそ七森や麦戸の大学生活(=社会生活)は中断を余儀なくされた。人の悩みを似たような立場の人間が聞いてあげるだけでは自分自身が壊れてしまうかもしれない。客観的な視点を持つ白城はそんな危うさを鋭く捉えている。

 しかし、そんな社会が課す不条理から二人を守ってあげようという心持でいる白城を誰がケアできるのだろう。例えば、鱈山は世界で巻き起こっている争いごと、すなわち不条理な暴力に対して心を痛めているが、自分に近い個別な問題に向き合い対話をできるような人間ではなさそうだ(そういう目的のサークルではないのも事実だ)。残りの部員たちの束縛的ではない友好な関係性や、部室の外では割と正直な話ができるオープンさは一つの希望だと言えそうだが、本作は安直な解決策を差し出さない。だからこそ対話する機会を常に用意しておくことが肝要なのだろう。

 では、その対話という行為を集団レベルに広げて(つまりdialogueではなくconversation/discussion)、その会話の結果がその共同体の運命を定めるものだとしたらどうなるだろうか。次回は『ウーマン・トーキング』について論じます。

 

 

 

 

 

*1:この場面は、居酒屋でのかつての同級生による心無い発言の前に、ぬいぐるみの両手が彼の耳を覆う場面と対をなしていると言える

*2:ここであえて「綿」という表現を用いているのは、ぬいぐるみの中の綿のやわらかいイメージが負のイメージに転換しうるからである

*3:映画自体の評価とは別に、このテーゼは突き詰めて考えると若干怖い話ではあると思った。ぬいサーは言わばぬいぐるみを愛してやまないし、大切にしている。そして、本作ではぬいぐるみ視点のショットが何度も登場し、ぬいぐるみも一種の主体として描かれる。つまり、ぬいぐるみの主体性に自覚的であればあるほど、ヘビーな話をぬいぐるみにし続けることの危うさも見えてくる。恐らくその点に関しても何らかの台詞での言及があったと思うのだが、確認できていない点は留意頂きたい

*4:このセリフは原作(文庫版でp.109)と人称以外はほとんど同じである

*5:ぬいぐるみ視点のショットは、本編中何度か使われており、ぬいぐるみも単に人の話を伝えられるモノではなく、ある種の人格?のある存在であることが示唆されており、先述の白城の心情はぬいぐるみが察知したようにも解釈できる