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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

機械仕掛けの「運命」:アルゴリズム対スパイダーマン(たち)

 

ykondo57.hatenablog.com

(↑の続き)その二作品とは、スーパーヒーロー映画『ザ・フラッシュ』と『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のことである。前者ではフラッシュが新たに発見した自分の能力を使って過去に戻って母親の死を食い止めた結果、時空の歪みが生じてしまい、一度はスーパーマンが倒したはずの敵と対峙する。後者では、主人公マイルス・モラレスが、スパイダーマン"たち"から成る「スパイダーソサエティ」における異常分子であることを知り、彼の反逆が始まる。どちらも面白く見たが、後者が達成したものは計り知れないと思う。アニメ表現に卓越したものがあるのは言うまでもないが、今回はマイルスの実存的危機を巡る状況について少し考えてみたい。

 結論から言えば、モラレスの最大の敵は高度な機械技術が可能にする、「もっともらしい」物語の構造化である。スパイダーマンの人生には、カノン・イベントという重大な出来事があり、そこでは必ずスパイダーマンは自分にとって大事な人を亡くす。その宿命を変えようとすれば、世界自体が崩壊しうる。スパイダー・ソサエティのリーダーであるスパイダーマン2099(ことミゲル・オハラ)からそう告げられたモラレスは以下のように反論する。

「じゃあアルゴリズムの言いなりになって、俺たちは他の人たちを死なせないといけないの? それって相当おかしいことなのは分かってるよね?」(拙訳)

("So we’re just supposed to let people die, because some ALGORITHM…says that that’s supposed to happen!? You realize how messed up that sounds right?")

ここでマイルスが指すアルゴリズムとは、相当高度に発達したライルという人工知能であるが、ミゲルは自らの過ちからライルの分析(あるいは予言)は正しいと考えているし、スパイダーパンクのような少数派を除いて、スパイダー・ソサエティ全体が彼の考えを元に任務を遂行している。ここまで多種多様なメンバー(何せ馬や恐竜までいる)がいるソサエティに恐らく民主的な意見形成の過程は存在しておらず、簡略化してしまえば、皆が「アルゴリズムの言いなり」になっている。そして、これだけの多元世界/マルチバースが存在するにもかかわらず、皆が同じ「物語構造」に落とし込まれているのである。

 ここで先ほど少し触れた『ザ・フラッシュ』の話に戻るが、この映画の評価が分かれるところはこの「物語構造」への対応だと思う。フラッシュことバリー・アレンは結局母親を救うことを諦めて、世界を元の姿に戻すことを決意する。Angelica Jade Bastienの素晴らしい近年のマルチバース映画に関する論考から表現を借りれば、「『アクロス・ザ・スパイダーバース』はカノンに疑問を呈するが、『ザ・フラッシュ』は、重要だと思っているカノンに忠実であろうとして台無しになっている」("Spider-Verse questions the canon; The Flash is undone by its loyalty to the canon it imagines as being important") のである*1

 カノンに抗わないということとは、社会全体は改善せずとも現行の均衡を取り戻すということであり、スーパーヒーロー映画が持つ物語構造自体は安定したままだ。しかし、本作はよりメタ的なアプローチでマイルスを描いており、文字通り目の前に提示される運命(らしいもの)に徹底的に抗うし、そこから(これまた文字通り)全力で逃走している。この顛末がどうなるのか、完全に宙ぶらりんの状態で映画は終わってしまっているので、推測する他ないが、その物語構造にある種のほころびがあることを最後に指摘しておきたい。

 最も目につくのが、グウェン・ステイシーことスパイダーウーマンが覚悟していた父の死が回避された(ように思える)点である。これが彼女にとってのカノン・イベントだったのだが、恐らく彼女との対話を通して心境の変わった彼は警察官を退職したため、カノンからの括りから離脱できたと解釈できる。

 また、カノン・イベントというものが恐らく本作において2種類あるということだ。一つは、スパイダーマン誕生の引き金となるようなもので、多くの場合ベンおじさんの死が該当する。もう一つは、追い打ちをかけるような形で起こる、マイルスの父親の死のような運命である。果たしてこの2者を同一視していいものだろうか?グウェンの例がアルゴリズムの不完全性を示唆しているように思える。この見立てについては、上映時期未定の完結編を待つほかない。

 

 

 

*1:個人的に、世界を元の姿に戻そうとする決断自体は擁護できるように思った。というのも、バリー・アレンはタイムトラベル能力を使って、細かく時間を巻き戻して、最終決戦の結末を何とか変えようとするが、何度やっても上手くいかない。敗北のリプレイが画面にいくつも刻み込まれることになり、ますます悲惨な状態が生まれていく。しかも、怪しい黒幕がそこに登場し、その正体がループに囚われたバリー本人だったことが判明する。要するに自分だけに都合良く過去を改変することは出来ないことをバリーは悟る。バリーがもっと早い段階であっさり諦めていれば、それはたしかにカノンに対してあまりにも従順ではないか、ということになるが、世界の時空が極めて複雑に絡み合っていることが丁寧に提示されているため、ある程度納得できる構造になっていると感じた