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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『パーフェクト・ドライバー』カーアクションから離れるということ、そして小道具が機能しているということ 

「パーフェクト・ドライバー/成功確率100%の女」

 一般的な意見ではないかもしれないが少なくとも自分にとって、21世紀の逃がし屋映画と言えばすぐに思い浮かぶのが『ドライブ』と『ベイビー・ドライバー』だ。1月に公開が始まった韓国映画『パーフェクト・ドライバー』を見ているとき、この2作が常に念頭にあった。あながちその2作を想起したのは間違いでなかったように思える。

 主人公ウナは普通のルートでは決して運べないブツを迅速かつ確実に届ける「特送」の腕利きドライバーである。冒頭の激しい逃走シークエンスは、ウナの超人的テクニック、口数の少ないその人となり、そして闇社会にも当然ある女性への偏見など、ストーリー上必要なことが観客に伝わってくる設計になっているし、豪快なカーアクション映画の幕開けとして堂々たるものだ。

 ここから、ジョン・カサヴェテス監督の『グロリア』のごとく、本来全く関係のない少年ソウォンを文字通り死守しなければならなくなる主人公の奮闘ぶりが描かれていく。その過程で、カーアクションからより広い意味でのアクション映画に本作はーポール・トーマス・アンダーソン監督の表現を借りればー「ギアシフト」していく。より具体的に言えば、立体駐車場で起こる中盤の壮絶なチェイスシーンで、アクションは自動車以外のところに移る。思えば『ベイビー・ドライバー』のクライマックスの舞台も立体駐車場で、主人公の逃避行を阻む最大の敵との決闘に勝つことで、逃がし屋業から足を洗う。つまり、『パーフェクト・ドライバー』は、『ベイビー・ドライバー』が最後に取っておいた展開に類似するものを前半でやってのけてしまったとも言える。

 ここで『ドライブ』との類似点が浮かび上がってくる。『ドライブ』も、鮮やかな形で逃がし屋映画として始まるのだが、その観客の期待を早々に裏切る。結局この映画が向かう先にあるのは、むしろ西部劇『シェーン』のようなものであることがやがて判明するのだが、この展開は、物語が進むにつれ、より『グロリア』的な側面を強めていく本作にも当てはまる。

 『グロリア』には銃撃シーンが何度も登場するが、それはあくまでもアメリカの犯罪映画だからのことであって、本作ではガン・アクションではなく、ウナが主に周りにあるもので戦うアクションシーンがクライマックスに用意されている。それ自体に韓国映画における革新的な新しさがある訳ではないが、抑えるところをしっかりと抑えている印象があり、決して飽きさせない。

 室内戦の後、ウナは「特送」ドライバーとしてのラストランを行う。しかし、それはソウォンを探すため、クラクションを繰り返し鳴らしながら、辺りを走り回るというものである。これは、我々が冒頭に見た、アクセル全開の爆走シーンや、追っ手にばれないように無音で坂道をバックするシーンと対照的なものである。もはやウナは接点のない誰かを「送り届ける」ために逃げようとしておらず、大きな音を立ててひたすらソウォンを「迎えに行く」ために必死なのである。本作のラストシーンにおいても、似たことが起こっていることを踏まえると、ここで本作における自動車の持つ意味が大きく変わっている。自動車が派手なカーアクションのためでなく、大事な人を乗せてあげるための乗り物、という本来の機能に立ち返ったと言えるだろう。もちろん、今まで述べてきたように、カーアクションからどんどん遠ざかったからと言って、アクション自体の熱量は維持されているので、話がしぼんだ印象は抱かせない。

 最後に、この映画が上手く機能している理由について、映画評論家の柳下毅一郎脚本だけでなく、存在感あふれる俳優たちの演技も挙げている。たしかにそれは間違いないが、それに付言すれば本作に登場するあらゆる小道具が物語上で然るべき形で機能していることも大きいと考られる。

 例えば、仕事道具として欠かせないマイナスのドライバーをウナが忘れる描写があったと思えば、それをスーパーで買い直し、自動車を盗難するために使う描写が続く。寿命が縮まるから、という理由で特送の社長のタバコを主人公が取り上げる描写があったと思えば、悪役たちは何のためらいもなく喫煙する描写が続き、さらにはソウォンの母親と思わしき人物から真相を聞き出すために主人公がライターで相手のタバコに火をつけてやる描写も続く。タバコは、物語を駆動させる小道具として、そして倫理観の濃淡を描き分けるための小道具としても機能している。

 ホテルのエレベーター内で悪徳警官が拳銃と手錠の両方を携帯していることが分かる場面も、最後の海中の場面を思い返せば、拳銃よりもむしろ手錠があの一瞬画面に映ったことが重要であることを思い知らされる。また、そのエレベーターにソウォンと乗っている場面でウナがカードキーを見つめるその目線で彼女の一計が分かる。ウナが修理工に電話越しに自室の暗証番号を伝える描写があるから、彼女の猫の面倒をちゃんと彼が見られたことに論理性が与えられるし、無くさないようにとソウォンがウナの車のカギに付けたものがあったからこそ、ウナの「再登場」に一種の説明が付く。これらの要素は、いわゆる「伏線」というよりは、ちゃんと話を考えていることの表れだし、そういうことを出来ている娯楽作は強いと改めて思った。