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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『フェイブルマンズ』気付くのはいつも後:主人公が撮った劇映画と記録映画(映画についての映画③)

 

巨匠スピルバーグ、初の自伝的作品!映画監督の夢叶えた原体験/映画『フェイブルマンズ』予告編 - YouTube

 スティーブン・スピルバーグによる『フェイブルマンズ』は、スピルバーグ少年が映画に目覚め、監督を目指すようになるまでの実体験を基に作られた映画である。スピルバーグの姓が本作ではフェイブルマン(Fabelman)、つまりお話、物語(fable)を想起させるものに変更されている。この映画を見て、スピルバーグ家の親子関係の「真実」を見出すことは出来るかもしれない。しかし、これはあくまでも「(半)自伝的映画」であって、完全に事実に忠実な伝記的記録ではないことを踏まえた上でいくつか気づいたことを以下に述べたい。

 まず、この映画は見たくないものも見せてしまう力を映画は秘めている、と感じ取れる作品だとは思うけれど、劇映画と記録映画とを峻別して考えた方が色々考えられて面白いと思った。

 玩具の列車衝突シーンの撮影から始まったサム・フェイブルマンの「劇映画」作りは、妹たちがミイラになったり、殺されたりする恐怖映画などを経由し、西部劇、そして"Escape to Nowhere"という戦争映画を撮ることで一つの到達点を迎えることになる。粗くまとめると、どの作品もいわば暴力を描いたもので、題材自体は、丁寧な人間ドラマなどでなく(あえてそういった作品を子供が撮りたいとは思わないが)、決して穏やかなものでない。

 しかし、脚本も編集も演出も彼一人が担っており、映画制作のコントロールは彼が握っている。映画の魔法や驚異に魅了され、次々と新作を撮るサムは腕をめきめきと上げていることが伺える。戦争の絶望を活劇という形で描くサムは、逆説的に心の平穏を手にし、生きる活力を得ているとさえ言えるかもしれない。

 ただ、当然ながらサムがカメラを向ける先は、フィクション映画のための被写体に限らない。サムの家族をホームビデオという形で撮影する場面が本作では何度も描かれる。他の評論でも度々クローズアップされるように、そのような記録映像がサムの家族の真実を露わにしてしまう。最も印象に残るのは、父親に言われてキャンプ先の家族を撮ったホームビデオの編集過程で、撮影時には全く気付いていなかった真実に行き着いてしまう場面だろう。これが記録映像である以上、カメラの前で起こることをコントロールできない。何気ない風景にも衝撃の事実が映り込んでしまうが、それが見る者によって読み取られるのはいつも事後であるという二つのことを教えてくれる場面であろう。

 そして本作のクライマックスはプロムである。そこでサムはあっけなく恋人に振られるも、彼の制作した"ditch day"(学年一同による非公式のサボり日)の映像は大好評であるところが描かれる。しかし、この一見無邪気で楽しそうに見えるこの記録映画は、映画の恐ろしさが何たるかを如実に教えてくれる。まず、彼は劇映画制作から得た技能を生かして、溶けたアイスクリームを鳥のフンに見立てるといった「演出」を自作に忍ばせる。ここに彼の劇映画と記録映画の両方を取ってきた経験が発揮されたと言える。それと同時に、恐ろしくも、純然たる記録映画が存在しえるという幻想を打ち砕くものでもある(そもそも編集がある時点でそこには人為が働いている)。

The Fabelmans Review - IGN

 そして特筆すべきは、ユダヤ系のサムを差別しいじめるローガンが、映画で描かれる自分と、現実の自分との歴然たる差に打ちひしがれ、惨めになっている点であろう。鍛えられた身体を賛美するかのような流麗な画と編集により、いじめっ子であり、自分の恋人に浮気をするような人間があたかも英雄のようにクラスメイトから称揚されることにローガンは違和感を抱きえないのだ。廊下のロッカー前で問い詰められるサムも、当初はカメラを向けただけ、などと言うが、結局はローガンを良く見せるような映像にしたことを認めている。しかし、まさかローガンが映像をたしかに読み解き、動揺のあまり若干の涙すら目に浮かべるとは予測できなかった(サム曰く、自宅の猿よりバカなはずなのに!)。ここに純粋無垢に思える映画の恐ろしい力を観客の我々は目の当たりにする。ここでもサムが気づくのは上映後であった*1

 このすさまじい場面だけで一見の価値がある映画だと思うが、エンディングではジョン・フォードとの邂逅が描かれるのだが、ここでも絵の説明を求められる下りを二度繰り返すサムは同じ過ちを犯す(「違う違う、地平線はどこにある?」)。ここでも彼は目の前に広がる映画の画が何たるか、若干気づけていない節があると指摘できるかもしれない(単に緊張していたからというのはある)。

 自分が考えるに、本作において、サムが手掛ける劇映画は創作の喜びをもたらすものである一方で、記録映画は自分でも気づかないものが映り込んでいたり、思いがけない効果をもたらす映像形態なのである。そしてそれにサムが気づくのはいつも後である、ということをこの映画を描いている。そして、いつも事後に理解するサムの映画人生はまだまだこれからなのである。

 

 

 

*1:しかも、自分の映画でこのことは絶対に使わないから!といったことを本作中に宣言してしまうメタ性には笑いを禁じ得ない