『ウーマン・トーキング』は、サラ・ポーリーの4本目の長編映画である(内ドキュメンタリーが一本)。俳優としてそのキャリアを始めたポーリー監督は、寡作だと言え、前作の劇映画『テイク・ディス・ワルツ』(傑作!)からすれば実に10年近く間隔が空いた。彼女のデビュー作『アウェイ・フロム・ハー』(2006年)は、アリス・ムンローの短編小説を長編として脚色した劇映画で、短編をうまく長編として映像化しており、彼女のアダプテーションの手腕が伺える。今回は長編小説を100分程度の長編映画に仕立て上げている。
今回は彼女のキャリアの中でも、とりわけ女性たちに対する抑圧、ないし危害を直接描いたものだと言える。
本作は超保守的なキリスト教一派の村で起こった連続レイプ事件に対して女性たちが、加害者たちに「何もしない」「残って戦う」「その場を離れる」という選択肢の中で何を選び取るか議論することを中心に展開する。本作は、その対話の舞台に至る前の展開を極めてスピーディーに描いており、とにかく会話を中心に据えることに腐心している映画なのだが、それでいて映画ならではの動きの欠いた一室劇的な停滞は上手く回避している。
(人物名については上の画像を参照してもらえればと思うが)例えば、オーチャは突然納屋から飛び降り、周りをひどく驚かせてしまうのだが、それは冗談であり、彼女は藁のベッドに着地している。そこで国勢調査の男性がやってきたことを皆に告げる*1。また、グレタはたとえ話として自分で馬車を運転しているときのことを語る際、観客の我々はその閉鎖的なコミュニティの先に広がる景色を垣間見ることになる。さらには、ナイチャやオーチャが女性たちの最終的な「決断」を他の女性たちに伝えるため、村を走り回る姿が終盤描かれる。しかも、グレタのたとえ話の場面に至っては、その意味を最後のショットで知るとき、観客も村の決断した者たちも、恐らくは(文字通りでもあるが)先の見えない不安と、未来を自分たちで作りだせる解放という、両方の感情に浸ることになる。
さて、時期を同じくして、一見変えようのない運命なるものを変えようと奮闘する主人公を描くとあるアニメが公開されているが、(次回につづく)