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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』復讐の天使カサンドラ

 個人的な予想とは大きく異なる内容であり、なおかつ今年最も鑑賞後に考え続けていたのが『プロミシング・ヤング・ウーマン』だった。インタビューでも監督エメラルド・フェネルは主人公キャシーを「復讐の天使」として描くため、あえて以下の写真のような演出を行っている。

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 彼女の後ろにあるものが羽を彷彿とさせることで、彼女は「復讐の天使」(avenging angel)としての役目を果たそうとしていることを本作は示している。ここで、本作に関する意見の分かれた点が連想される。そもそも彼女の復讐が被害者であった親友ニーナの意思を全く無視しているのではないか、という点である。キャシーは彼女なりの正義を行使しようとしているものの、それは同意(consent)なき独断的行為ではないのか。もちろん、「レイプ・リベンジもの」(rape-revenge movies)では、被害者となった主人公が自らの手で復讐を果たす。それはほとんどの場合、加害者の死である。当然それは超法規的な行為であるが、もうそれは同ジャンルにおける「お約束」であって、それをあえて鑑賞してその判断を咎める人はもういないだろう。本作を批判する批評も、そのレイプ・リベンジものの問題点を指摘する、つまり加害者への措置を批判するというよりも、ニーナがスクリーンにほとんど登場せず、ほとんどキャシーの目線からしか語られない点に注目している。ニーナの母親もはっきりとキャシーに自分の娘の死に固執するのはもうやめてほしいという旨のことを伝えていたはずだ。そういった指摘は極めてもっともなものだと認識している。しかし、筆者の見方としては、本作は復讐譚の定型を様々なレベルでずらそうと試みた作品だとすると、ある程度の説明は着くのではないだろうか。端的に表現すれば、本作は意図的に「居心地の悪さ」を強調した映画だと言える。 
 リベンジものにおける主人公の復讐(多くの場合は加害者の殺害)は、その物語において倫理性を問われるものではないだろう。少なくともそのジャンルのお約束を知っていて映画を鑑賞する側からすれば、主人公の超法規的決断を咎めることは恐らく重要ではないはずだ。とにかく復讐を完遂できるのか否か、というサスペンスや、いかに復讐を成し遂げるのか、というその過程が優先されるのではないだろうか。ところが、そういった人命を奪う行為に関する批判が宙吊りになっている物語世界において、ニーナの意向を考慮に入れぬまま復讐を遂行しようとするキャシーは「問題ある復讐者」だということになってしまう。要するに、我々も「復讐者」に肩入れして安易に感情移入をすることが許されていないのだ。そして、この「居心地の悪さ」はラストの展開で最大限に増幅されることになる。
 本作のクライマックスでは、キャシーの殺害計画は頓挫し、自らの命をもって彼女はその代償を払うことになる。彼女の息が絶えるまでのシーンは、極めてリアルに、そして見る側の期待を裏切る形で描かれている(監督によると、このシーンの長さは、枕で実際に窒息するのにかかる時間に合わせたそうだ)。もちろん、死してなおキャシーは別の方法で復讐を一応のところ果たす。しかし、キャシーとニーナの命に代えられるほどの復讐ではないことがかえって強調されたとも取れる。 
 思い返してみると、キャシー自身による身体的暴力は本編で何度もほのめかされているが、そのほとんどは実際に起こっていない。例外として男の車のフロントガラスを大破しているが、男本人を殴打したわけではなく、やはり身体的暴力に関してキャシーが「一線を越えない」ようにプロットが形成されていることが伺える。