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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『ドアをノックするのは誰?』スコセッシの「アニー・ホール」、あるいはタランティーノの新作について

 

 イタリア系アメリカ人のJ.Rと、彼と出会い交際を始める女性(役名はThe Girl)との関係を描いた90分ほどの人間ドラマで、マーティン・スコセッシの長編デビュー作だ。      

 この映画は、後に彼が何度も形を変えて描くことになる、宗教と世俗の世界の間で葛藤する主人公の話で、そういった観点は常に指摘されてきた訳だが、今回初めて自分が観たときに気づいたのは、映画についての会話場面だ。

 主人公が好きなジョン・ウェイン主演の西部劇(『捜索者』)の話を初対面の女性にして、やがて彼女が彼の恋人となる訳だが、彼は彼女と西部劇を見に行き(『リオ・ブラボー』)、その映画に関する感想が彼女を少しうんざりさせ、やがて二人の破局につながるという展開、どこかイタリア系アメリカ人版の『アニー・ホール』のように思えた(本作の方が10年ほど先)。ただし、スコセッシはこの映画を恐らく真面目に撮っていて、自虐から生じるユーモアみたいなところはないし、女性観があまりにも単純なJ.R.の人間として未熟でダメなところを描くのがこの映画の主眼であるのは分かっていても、見ていてあまり感心はしなかった。いずれにせよ、映画オタクとしてのスコセッシの自伝的要素が色濃く表れている一作だと思った。

 ちなみに、自分がこの会話シーンを特に意識したのは、より自身のオタク性を会話に反映させるクエンティン・タランティーノ監督の著書Cinema Speculationでこの会話場面への言及があったからだ。この本では、『タクシー・ドライバー』に一章割かれているだけでなく、「ブライアン・デ・パルマがもし『タクシー・ドライバー』を撮っていたら?」と延々と妄想するだけの章まであり、彼の強いこだわりが見て取れる。そんなことを思っていたら、タランティーノの10本目にして引退作の主人公は映画評論家で、「(『タクシー・ドライバー』の主人公)トラヴィス・ビックルがもし映画評論家だったら彼のような人間だったろう」タランティーノは発言している。ここまでタランティーノがこのような時代設定と人物にこだわりを見せているのは、単なるスコセッシの監督作に対する目くばせというよりは、脚本家・映画監督のポール・シュレイダーの影響によるものだと、Cinema Speculationを読んだあとだとそう断定できるのだが、その話はまた機会があれば。