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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

学校では真似できないボクシングという対話『クリード 過去の逆襲』

 

 『クリード 過去の逆襲』は「ロッキー」シリーズのスピンオフとして始動した「クリード」シリーズの3作目であり、主役アドニスクリードを演じるマイケル・B・ジョーダンが監督として初めて撮った長編映画でもある。本作ではもうロッキー役としてスタローンは全く登場せず、とうとうクリードを巡る物語は独り立ちしたようだ。

 本作は、世界王者として引退したアドニスの前に、かつての兄貴分だったデイムことデイミアン・アンダーソンが長きに渡る刑務を終えて現れる。彼はアドニスによりチャンプになる夢を絶たれたと考えており、復讐のために半ば強引な形でアドニスが築き上げてきた名誉を奪い取ろうとする。

 まず、デイム役ジョナサン・メイジャーズの、憂いを帯びた普段の表情から、復讐に燃えるボクサーに変わっていく様は圧巻だし*1アドニスとデイム双方の徹底的に鍛え上げられた肉体はボクシング映画として本作に相当な説得力を与えている。

 本作の試合描写は、本人たちが実際に闘っている姿をカメラはかなり近くから迫力たっぷりに捉えているところだけでも、この映画の凄みが十分伝わってくる描写になっている。そのような凄みを保持した上で、今回はリアリズムを若干崩す描写が登場する。 例えば、相手の急所を見出し、慎重にタイミングを見計らい、一瞬の隙を突いて打つという一連の流れを、素早いズームにより射撃の的のごとく見せるような演出がなされている(これをデイムは「チェックメイト」と表現している)。極めつけの例は、アドニス対デイムの最終決戦で、突如満員のスタジアムから観客が完全に消えたり、リングに二人の忌まわしき過去を想起させるようなモノが登場したりする演出だろう。この場面で、思わず自分は少し声を上げてしまったのだが、それほど意表を突く描写で、試合に別の意味を付与し、平板で単調な試合運びを避けた、というのは斬新なことだと思うし、これはスタローンやクーグラー監督にはできなかったことだろう。ボクシングの映画としては申し分のない出来だと思った。

 しかし、それと同時に若干気になった点が2点ある。一点目は、デイムの取った行動に対して試合を申し込む以外の選択肢はアドニスに本当になかったのか、という点で、二点目は娘の「暴力」についての問題を若干置き去りにしていなかったか、という点だ。一点目に関しては、要するに通報すればそれでデイムを巡る問題は済んだのではないか、ということなのだが、それをしなかった理由は容易に察することができる。そもそもデイムが収監されたのはアドニスが取った行動の結果だとアドニス本人がそう思っているし、前科のある彼がまたもや逮捕されてしまうのはあまりにも悲惨だと見えている。自分一人の拳で何とかしようとする、という気概は後述するように、ある種ボクサーとしての驕りだと言ってしまうことすらできるだろう。

 そして二点目についてだが、アドニスと妻ビアンカの娘であるアマーラは聾学校でいじめてきたクラスメイトをボクシングのごとく殴ってしまう(無防備な相手に対して、しっかりと構えを取ってから殴っている)。暴力を振るったことをある種擁護するアドニスに対して、ビアンカは暴力は解決策たりえないと反論する。この立場の違いは、アドニスの語られざる過去をビアンカが知らないことに起因しており、物語上ここからアドニスの過去が浮上してくる運びになっていることは一応理解できる。その一方、ではアマーラは今度同じようなことが起こったらどう行動を取るのか、と序盤から気になっていた(その一回殴った件でいじめ自体が完全に終わるような気がしなかった)。

 一般論として、何か他人との間で摩擦が生じたときは、対話が重要である。そして、実のところアドニスはデイム相手にボクシングという名の「対話」を行ったと比喩的に見ることができる。結果として試合後アドニスとデイムはロッカールームで二人の関係性を修復させる。それは互いにパンチを交し合い、語るべきことを拳で語りきったとも言えるからだ(それゆえ二人は対戦相手にかつての友の姿を見出し、立ち現れる過去の遺物に取り囲まれながら闘い続ける)。逆に言えば、殴り合いをしない限り、彼らはまともに対話できないということだ*2。父親アドニスが相手にどんなにパンチを浴びせようとも、それがボクシングの試合であれば何の問題もない一方で、それをリングの外で真似することは許されない。極めて当然のことだが、それはただの一方的な暴力行為である。

 二点目の結論としては、結局アマーラはボクサーとしての父親をさらに尊敬し、スポーツとしてのボクシングにより一層関心を持つことになるが、暴力以外の何かが提示される訳ではない。少なくとも父親の真似をしたらまたもや大変なことになることは必須だ。アドニスの「対話」とはごく一部の人間にしか許されないコミュニケーションの手段なのである。

 そして、実は対話という言葉を今回持ち出したのは、本作と全く毛色の異なる『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の長めの評論を用意しているからでした。(次回に続く!)

 

ykondo57.hatenablog.com

 

*1:しかし、最近の報道を踏まえると見る側としては複雑な心境である

*2:マイケル・B・ジョーダンGQのインタビューで「男が感情を見せると弱いと思われるから。この映画でアドニスは感情を表現することを学びます。それは彼をより良い人間にするのです」と述べ、このボクシング映画の中で、現代から見た男らしさを検証しているのは分かるのだが、ボクシングの試合をクライマックスに持って来ないといけない以上、どこかに限界はあるなと勝手に今回自覚した次第である。もちろんスポーツ映画なのでそれはそれでいいのだが