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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

在宅鑑賞日記⑤ 『エブリシング・エブリウェア~』とミシェル・ヨーのカンフー映画 (後)

某日 カンフー映画を集中的に見るつもりだったが、一か月で見たのは『ワンダー・ガールズ 東方三侠』(1993年)『ワンダー・ガールズ 東方三侠2』(同じく1993年!)『皇家戦士』(1988年)の三本だった。どうやっても倒せないターミネーターのような敵が出てきたり、その続編では突如マッドマックス的な(飲み水が確保できない!)ディストピアで大格闘したり、真田広之と共闘したりと、設定は様々だが、生身のアクションの凄みはどの映画でも健在だった。

某日『エブリシング・エブリウェア~』を再見する。1回目は情報を処理するのに精一杯だったが、2回目は、全体の構造が頭に入っている分、その構造の意味についてもう一歩踏み込んで考えることができた。この映画は3部に分かれているが、実質は2部プラス少しのエピローグである。第一部では、荒唐無稽な行動を取って特殊な能力を得る過程で主人公エブリンの意識は別宇宙を飛び回ることになる。その行為は、あり得たかもしれない自分の魅力的な人生を垣間見ることであり、現実からの「逃避」たりえるものだ。

 その一方、第二部では娘のジョイが地獄巡りの案内人(第一部ではアルファ・ウェイモンド)となり、宇宙を自由自在に飛び回る。ここでは第一部における移動の制約がもはやない。しかし、その結果エブリンは困難な状況に幾度となく放り込まれることとなり、その全ては「逃避」行為とは程遠い。むしろ見たくないものと「対峙」することをエブリンに強いるのだ(だからこそジョイはニヒリズムに陥ったと説明される)。マルチバースを巡る冒険でありながら、第一部と第二部とでは、宇宙を飛び回ることの意味が全く異なることを改めて整理できた。初見の際は、どうもその作中のルールがいつの間にか変容していることに頭がついていけなかったのだが、どう変わっているのか若干は分かるようになったので、比喩としてのマルチバースの真価がもう少し理解できるようになったと思う。