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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『先生、私の隣に座っていただけませんか?』相互反応する漫画と映画(ネタバレあり)

 一応忘備録として映画レビュー用SNSのLetterboxdに2021年度映画鑑賞作に暫定的なランキングをつけているのだが、9月末時点でトップ3にあるのが、『ドライブ・マイ・カー』『先生、私の隣に座っていただけませんか?』『サマーフィルムにのって』の邦画3本だ。もはや「洋画見聞録」ではない点はさておき、上記の3本の共通点はどれも「作中作」が大きな役割を果たしているところだ。『ドライブ・マイ・カー』(2021年8月の3点 - アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録)では演劇が、後日取り上げる『サマーフィルムにのって』では自主製作映画が、そして今回取り上げる『先生、私の隣に座っていただけませんか?』では主人公の書くマンガが本編にとっての重要な要素となる。

相互反応する漫画と映画
 本作は、漫画家夫婦と互いの浮気疑惑をめぐる「不倫もの」であるが、そもそもどこまでが現実でどこまでがフィクションであるのかという線引きをめぐる「ミステリー」でもあるところが面白い。事の順序としては、まず主人公の売れっ子漫画家早川佐知子(黒木華)が、マンガを描かなくなった夫の俊夫(柄本佑)の浮気に「どうやら」気づいていることが暗示され、続いて佐知子と、通い始めた自動車教習所の教官(つまり「先生」)との関係性が示唆される。しかし、全ては夫が盗み見する妻の新作『先生、私の隣に座っていただけませんか?』のネームを通じて語られる。したがって、現実と虚構との境界線は初めから極めて曖昧だ。本編の大半において、そのネームの内容は「何〇話」というテロップが出た後に観客に示される。しかし、その形式は話数を重ねるごとにトリッキーに変容していき、画面でリアルな形(というよりも、この作品の中のリアリティにおいて)で語られる内容にのめりこんでいくうちに騙されている自分に気づかなくなっていくという巧みさもあると思った。
 そこで本作の見どころの一つとして挙げられるのが、夫婦が互いに真相を確かめようとする終盤の場面だろう。本場面におけるマンガ内の虚構がもしそのまま現実に起こっていれば、夫は自らの非を認め、妻はその告白に心を痛めつつも、俊夫に自分のネームへのペン入れを頼むことで、自分の夫である前に何よりもマンガの「先生」であった俊夫を取り戻すことになる。同じ机で隣合って座る二人は共同作業で原稿を完成させる。つまり、「先生、私の隣に座っていただけませんか?」という作中マンガのタイトルは、浮気相手と思わしき指導教官(だけ)ではなく、どうやら夫のことも指していることが明らかになる訳だ。ここだけ切り取ると、なかなか感動的な展開ではある。
 しかし、この場面は、作中マンガ内の虚構(場面の照明がオレンジ)と、作中世界の現実(青白い)とを何度もシフトさせることで、安易に真相を提示することを拒んでおり、見ている側の不安をあえて解消しない方針を取っている。この二人が翌朝、連載が決まったとの知らせが俊夫の浮気相手だった編集者(奈緒)から届き、原作佐知子、作画俊夫というタッグが誕生することになる。俊夫は再びマンガ家としてのキャリアを始めることになるのだ。しかし、そのとき佐知子は姿を消していた...
 
媒体としてのマンガ
 結末部分に触れる前に、ここで本作における二つの要素についてもう少し検証しておきたい。第一の要素はマンガそのものの性質である。あまりにも自明な指摘かもしれないが、やはりマンガは、新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、あるいは映画と同じく、広く言えば「メディア」である。メディアという言葉の単数形である、ミディアム(medium)とは日本語で言うと「媒体」「媒介」である。要するにそれを使って何かを伝えるものなのだ。そしてその媒体の対象は、大概の場合既に定められている。作中のマンガのネームも(少なくとも途中からは)未来の読者に向けられた...ものでは恐らくなく、想定の読者は夫だけだろう。机上にさりげなく置いてあるマンガの原稿は、彼女の計画を遂行するために大変重要な媒体である。佐知子の母親が言うように、本人はあまり胸中を気軽に打ち明けるようなことをしない。口数の少ない人間かもしれないが、漫画家としてはとても雄弁にものを語ることができる。
 少し話がそれるが、特に示唆的なのは、ネームが時にファックスというさらなる伝達を可能にする機械を介して届けられている点だ。この段階では彼女はネームを「送りつけて」いるわけで、本人の意図は明らかである。ちなみに、これがファックスであるのも意味があると思っている。携帯で原稿の画像を送ってしまうことも出来るが、それは瞬時にメッセージの受け手が返信することを可能にしてしまう。もちろん調べることは出来なくもないが、若干時代遅れのデバイスゆえに出所が分からない謎めいたメッセージを送るには最適のものであろう。こちら側の理解としては、我々が見ているのは、原稿というよりも、夫に(そして我々に)向けられた巨大な手紙だと思えば良いのだろう。そして、それは決して「ラブレター」のような甘美なものではない。演出的な側面からしても、マンガはうまくカメラを使えば映画の中で見せるのに結構適していることが今回分かった。小説の活字を画面いっぱいに見せるよりは、絵(マンガの一コマ)と音(ボイスオーバー)を同時に展開させる方が、映像と音声双方を動員する映画というメディアの特性を活かせるのかもしれない。次項で少し触れるが、実際に面と向かってよりも、マンガを介して間違いなく「対話」ができている。後に判明する(?)ように、それはコミュニケーションではなく、意図的なミスコミュニケーションの積み重ねだったかもしれないが、主人公の目的はどうやら果たせたようなのだ。    
 
ドライブ・マイ・カー
 第二の要素は自動車である。そもそも本編冒頭で夫婦が住んでいたのは都内のマンションである。そこで無事に人気連載の最終話を書き終える。担当の編集者が称賛するように、「伏線回収」(!) もしっかりとできていたそうだ。しかし、母親が足を骨折したと聞き、彼女の実家に二人で戻ることで話の本題が転がり始める。その母親の家では移動手段が自家用車に限定されており、免許を持たない佐知子は夫に送迎してもらって地元の教習所通いを始める。そのため車内で二人きりの状態が続くことになり、その会話の端々に本音が漏れ出ることになる。そして、二人の関係が不穏になる場面では、車がトンネル内を走行しているだけでなく、その車内の二人が同じ画面に登場しなくなる。カメラは二人を割ってしまうことになる。会話は続いているもの、分断しつつある二人の状況を想起した。
 こういった状況を生む、現代の物語における自動車とは、一種の「動く密室」であると言える。つまり、a)長距離移動を可能にし、b)移動中は外に出られないものである。b)の要素が半強制的に二人の会話を促すものであり、関係性を暗に物語ることになる。トンネルの場面については上述したが、それとは対照的に普段の車内の場面では、二人とも同じフレーム内に収まっていた。会話の内容だけでなく、その会話がどういった形でカメラが捉えているかもどうやら重要に思える。もちろん、これは単に撮影的制約のものかもしれないが、なぜこのトンネルの撮り方に筆者がこだわっているのか、その理由は最後の箇所で言及する。
 当初は車を運転することが怖かった佐知子であるが、若くて優しい男性教官の指導により、前向きに教習所に通うようになる。ただ、マンガ「先生、私の隣に座っていただけませんか?」内の主人公の考えでは、夫が車の免許を早く持ってほしいと思う本当の理由とは、そうすれば夫が彼女の元を離れ、浮気相手と一緒になれるからだ。それを読んだ俊夫は、自分の考えと異なることにうろたえる。最低限の足さえ確保できれば、もう俊夫を引き留めるものはない、俊夫は妻の実家を去り、佐知子は実家に置いてけぼりになる、という邪な発想が本当に俊夫に全くなかったかどうかはさておき、もうここで観客は注目するところを見誤っている。
 なぜなら、佐知子の免許取得とは彼女の行動範囲を広げることを意味し、実家に釘付けになるのはむしろ俊夫の方であった。指摘してしまえば至極当たり前のことではあるが。夫の車を借りて「家出」をすることで、教習所での数時間よりもはるかに長い、「空白の一日」が生じ、謎はますます深まる。そんな中、翌朝突然続きのネームがファックスで送られてくるのだが、その中身を俊夫が冷静に解釈する時間もないまま、佐知子は例の先生=教官とともに車から姿を現す。その晩、俊夫&佐知子の担当編集者、佐知子&佐知子の教官という「不倫ペア」2組と佐知子の母親という異様なメンバー構成で食卓を囲むことになる。そして、佐知子が食卓をまたしても突如離れて自分の部屋に戻るところから、上述した夫婦の対峙場面が始まる。
 
最後まで語るのは私
 ここでようやく結末場面について言及することになる。姿を消した佐知子目線の種明かしが再び始まる。佐知子は皆が起きる前に起床し、下のリビングで寝ていた先生を起こす。食事の最中、二人の間には何もないと言っていた教官だが、どうやらそれは演技で、本当に二人は恋人だったらしい。母親もそれを感ずいており、佐知子はしかるべきときに正直に話してくれなかった俊夫を簡単に許してはいなかったのだろうと本人に言う。かくして俊夫の車で佐知子は再び実家を去っていく。今回はもう戻ってこないはずだ。しかし、これを果たして額面通り信じていいのだろうか。最後のショットでは、先ほど説明した車内を割った形で主人公の顔が映るが、助手席に本当に彼女の駆け落ち相手の「先生」が乗っているかどうかは分からない。上記したような不穏さがここでも反復されて本編は終わる。ただし、真相がどうであったか、謎解きをすることがそこまで重要だとは思わない。このようなオープンエンドが落としどころとしてベストであったと思う。
 重要なのは、自分のアシスタントとして甘んじていた俊夫をスランプから救った一方で、別段彼のサポート役に回るつもりもないという点だ。フィクション内の夫婦において女性がキャリア的に男性に対して上位だと、結末部分でそれが反転して結局男性優位な社会の現状維持を図るパターンは少なくないと思う。しかし、本作の場合、主人公が自らミューズになるが、夫の背中を押すことだけで満足するような主人公ではない(これは厳密には正しくない。あくまで創作するのは彼女で、その原稿にペン入れするのが夫)。そのような都合の良い妻、ないしパートナーであるつもりなど本人にない。あくまでも自分の人生という物語の主人公は自分自身であるのだ。
 本作は「人気連載の終わり」で始まり、「新作連載の始まり」で終わる作品であったように、彼女もかつての人生に一区切りをつけ、新しい一歩を踏み出す契機を本編で得ている。「隣に座って」いるのが誰であろうと、新しい人生における決定権、そしてそれをいかようにも語る権限は本人にあるのだ。

 

 

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