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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『サマーフィルムにのって』時代劇と青春恋愛映画は通じ合える

 

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 主人公ハダシは大の時代劇好きだが、高校の映画部で自分の撮りたい映画が撮れていない。その映画部では、来る文化祭にて上映予定の恋愛映画を撮影中だからだ。その青春映画に対抗すべく、SFマニアのビート板と剣道部のブルーハワイ2人とオリジナル時代劇を独自に撮ることを決める。その主演の剣士は、名画座でたまたま出会った凛太郎という少年だ。撮影班のスタッフとして学校の個性的なはみ出し者を集め、ハダシたちは撮影を開始するが、凛太郎は未来から来た人間であることが判明するだけでなく、彼への想いに揺れるハダシは結末をどうすべきか悩み続ける。

 

皆に語るべき物語がある

 これは当たり前のことなのかもしれないが、97分という短い尺の中でそれぞれの登場人物が引き立てられている。ハダシ・ビート板・ブルーハワイというトリオ構成にもきちんと意味があり、3人の間にはしっかりとしたつながりがある。3人を象徴する要素は、序盤だと「時代劇・SF・剣道」である。これは本作の主要素を反映させたものである。ハダシは時代劇を監督する。また、ビート板は凛太郎の到来をタイムトラベルの観点から理解、周りに解説し、本作中の世界観にSF的要素をなるべく自然な形で導入する役割を担っている。そして、ブルーハワイは剣道の大会でさらりと優勝してしまう腕前の持ち主で、技術的側面から殺陣指導に携わっている。趣味・嗜好という観点からすれば、ハダシとビート板は、件の甘ったるい恋愛映画への嫌悪を共有しており、ハダシとブルーハワイは時代劇への情熱を共有している。

 こうして3要素を並べてみると、ブルーハワイの「独自性」が他の2者に比べて弱いように見えなくもない。剣道はこの場合チャンバラという形で時代劇に内包されうる要素だからだ。しかしそれが本作が仕掛ける一つの罠であって、実際のところブルーハワイは隠れラブコメファンであることが終盤判明する。「時代劇への情熱」が「恋愛映画への嫌悪」を必ずしも意味しないことは、よく考えてみれば当然のことで、これこそが観客が持っているかもしれない決めつけが明るみに出る瞬間である。したがって、実際のところ「時代劇・SF・剣道/青春恋愛映画」くらいの認識が構図として正確なのだろう。しかし、またもやこれでは異なる次元のカテゴリーが混在した状態が生まれており、わざわざ図式化していながら収まりが悪いように思えるかもしれない。しかし、この「割り切れなさ」、あるいは「混在している状態」こそが本作の最大の魅力だと筆者は考える。

 

時代劇vs.青春恋愛映画 ー まやかしの二項対立

 この箇所の結論から言うと、この「混在している状態」とはハダシの時代劇と映画部の恋愛映画には大きな共通点があり、両極端に思える2つのジャンルは実際のところほぼ同じことを語っているということだ。表現を変えれば、本作における時代劇と青春恋愛映画は、二項対立という形で割り切れるものでは決してないのだ。本作を見た人には至極当然の指摘かもしれないが、論点を冒頭から整理していきたい。 

 とにかく互いに頭に浮かぶキラキラした甘い言葉を屋上からぶつけ合う、作中映画『大好きってしかいえねーじゃん』のアヴァンタイトルを見ると、昨今量産される青春恋愛映画のパロディ(あるいは誇張なしの典型例?)を想起させるのだが、それに対置されるのが、小さなテレビに映る勝新太郎の殺陣だ。きわめて鮮明なカラー映像と、荒い画質の白黒映像、そして生を謳歌する高校生と死と向き合う座頭市という対照性にこれ以上の言葉は要らないだろう。

 しかし、2つのジャンルがいずれ交わることは初めから仕組まれていた。テーマ設定から言えば、ハダシも、映画部を率いて主演兼監督を務める花鈴も、青春の真っただ中にいる高校生であり、二人とも自分なりの形で青春を描こうとしているに過ぎない。ハダシもその点に関してはかなり率直で、その証拠に彼女の時代劇のタイトルは『武士の青春』だ。そして、ハダシが凛太朗に説明するように、両作とも「愛」についての作品なのだ。

 もちろん、本作の序盤では、花鈴の場当たり的なアイデアから、なぜか主人公演じる花鈴の恋敵としてハダシがワンシーンだけ出演する運びとなり、時代劇に対しての理解やリスペクトがこの青春映画の監督にはほぼ皆無であることを観客は察することになる。しかし、それも後になってみれば、既に現代の青春恋愛映画に前時代的な時代劇要素が組み込まれているという点で、ハダシの出演は2つのジャンルにフュージョンが生じた証左となるのだ。少なくとも筆者にとって、現実味の一切ないセリフをたどたどしく言うハダシの出演場面が文化祭の上映で反復されるところは若干感動的ですらあった。

 ライバル同士が気づけば同じところで撮影していたというギャグは本作で繰り返される。川辺での撮影初日には、映画部が使用するドローンにハダシたちが邪魔をされ、海辺での最終場面の切迫した撮影でもその緊張をあざ笑うかのように映画部も近辺で撮影していた。しまいには両グループの宿泊先も同じであったことが分かる。その民宿の大浴場でハダシたちが花鈴の話をしている最中に、張本人がやってくる。「映画での真剣勝負」という状況における大浴場はいわば「休戦」の場だと言える。しかし、その敵がやってきて、ハダシはそもそも戦うほどの相手とみなしていなかったことが明言される。その晩に、ブルーハワイが青春もの好きであることを打ち明けるのだが、そこに出演者が他方の映画に出演するという、「クロスオーバー」の契機が生じることになる。
 翌朝、急遽ハダシが独善的に敵視していた『大好きってしかいえねーじゃん』にブルーハワイが代役として出演することになり、その名演に皆が感激する。そして、その「お返し」として映画部が撮影に協力し、ハダシ監督作も無事にクランクアップを迎えることになる。振り返ってみると、花鈴側の映画に中身が大してないように思える反面、監督の映画に対する情熱、真剣な姿勢、演出の技量、そして映画部の撮影技術はたしかなものだ。例えば、先述したドローン撮影は不要な撮影方法として描写されており、一種のギャグとして帰着しているが、撮影の技能やノウハウはきちんと持っている、生半可な撮り方はしていない。

 追記すると、この映画に対する真剣な姿勢はポストプロダクションの日々が同じ映画部の部室で描かれていた。部屋がちょうど真ん中で二分されており、机に向かってひたすら編集作業を進める花鈴とハダシの姿があるのだが、両サイドの男女が出会い、そして別れていく顛末も描かれている。これも丁度2つの領域の境界線上で展開しており、やはり「あちら側」と「こちら側」は常に越えられることが示されていた。そして、ゲリラ的に映画部上映を乗っ取るのではなく、正式に映画部の上映作品はu『大好きってしかいえねーじゃん』と『武士の青春』の2本立てとなる。その結果、一方的なライバル心が堂々とした作品上の健全な勝負に変化したところも重要かと思う。前者目当てにやってきた観客も、やがて後者の作品としての凄みを体感することになる。2本の異なるジャンルの映画はどちらも観客の心を奪ったのである。2本の映画は互いに混ざり合い、互いに共鳴しながら、上映されることになったのだ。

 しかし、そうはいってもやはり本作の主人公はハダシであること、そしてハダシの映画作りが本筋であること、という二つの意味において、本作はやはり「ハダシの映画」だ。「まやかしの二項対立」は解体され、最後はハダシのナラティブだけが主軸として残る。本作の劇的なラストでは、互いの感情に「決着」をつけるため、凛太朗とハダシが「最終決戦」に挑む。ただし、今回は箒を使ったチャンバラである。こうして、そもそも上映後には葬り去らなければいけなかった『武士の青春』は、体育館という、映画上映の場としての「劇場」を、ライブ・パフォーマンスの場としての「劇場」へと変化させることで堂々たる一度きりのエンディングを迎えることになるのだ。*1

 

 

 

 

*1:ちなみに、ここまでの議論にて、主役と監督との関係性の変化についてはほとんど触れていなかったが、2つのジャンルというところと絡めて一点だけ指摘しておきたい。ハダシはまだは見ぬ自分の映画に凛太朗は欠かせない存在である、「あなたじゃなきゃダメ」なのだ、と監督の立場から凛太朗に「告白」している。換言すれば、演技する人間、役者として凛太朗に監督として「惚れた」のだ。もちろん、その時点では恋愛感情など彼女にないのだが、撮影をしていくにあたって被写体の彼に恋心を抱くようになる。この虚構な関係性が実際のものになっていく、という展開はまさしくロマンティック・コメディの常套に他ならない