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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

映画という光の魔法に魅せられて『エンドロールのつづき』(映画についての映画①)

 

映画愛に関する映画となると、郷愁的か湿っぽい映画になりがちだろう、とか『ニュー・シネマ・パラダイス』のような類の映画か、などと思ってしまうが、『エンドロールのつづき』はより根源的なレベルで映画という光の魔法に迫る良作だった。

 お金はなくとも時間だけはあった、と両親に「時間」という名前を与えられた9歳のサマイは、厳しい父親の方針により映画を見せてもらったことがない。しかし、「今回は特別に見に行くが、今後はもう見ることはない」と告げられ劇場で映画を見たサマイは、すっかり映画という現象に魅了されてしまう。どうやらサマイの関心は、映写室の小さな窓から一本の光の筋が巨大なスクリーンに投影されることで今自分が見ている映像が自らの瞳に届いている、ということで、理論的に物語を理解する云々ということよりもはるかに原初的な現象なのである。現に、サマイの視点を介すると、映写機の光は『2001年宇宙の旅』のスターゲートに似た様相を呈する。つまり、映画の光とは、人を別世界に誘う奇跡のようなものなのである。

 ここから始まるサマイの映画の旅がまた凄い。お金を持っていないサマイは、母の手作りの弁当を上映技師ファザルにあげることで、映画館へのアクセスを得る。上映するための機材が全くないので、汽車の車両の窓を閉め切って、暗室のような環境を作り、そこに少しだけ開けたところから光が差し込んで、上下反転した外の景色が映る。当初マッチ箱のイラストを使ってお話をするサマイだったが、それが発展して無断で切り取ったコマ単位のフィルムを投影してその映画の物語を再現するようになる。やがて、サマラたちはフィルムを倉庫からくすねてマンガのように映画を「読む」ようになるが、それは映画が静止画を高速で連ねたものに他ならない、という至極当然だが今日の我々が忘れがちな真実を教えてくれる。

 そして、とりわけ感動的なのが、手作りの映写機を完成させる場面だ。その結果もとは現代インドのカラー映画だったものが、サイレント映画として新たな生を得る。これは正規な映画製作の技術を学んでいないにもかかわらず、彼らはサイレント映画の「発明の瞬間」に辿り着いたとも取れる。しかも、そこから自分たちで音をつけて、音声と映像を合体させた映画(トーキー!)を作ってしまう。電気のない環境に暮らしていても、西洋の映画史を世紀遅れで自力でなぞり、そして上書きすらしていく彼らの行動に、映画がいかにオープンなものたりうるのか、思い知らされる。

 晦渋な玄人の評論や、逆張りが過ぎる素人の言説が、映画を語る上で活字及びネット空間で散見され、そもそも映画という現象がもたらす驚きや喜びから期せずして遠ざかっている人(もちろんこのブログに対しても同様の批判ができる)がいるなら、この映画を見ることが一種の「解毒剤」となるのではないか、と思わせてくれた。

 

 

 

エンドロールのつづき 画像14

 

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