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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

郊外で私は喪に服す ー『ワンダヴィジョン』という「アノマリー」についての覚書 (後)

 本稿のタイトルで私は『ワンダヴィジョン』を「アノマリー」と表現している。「アノマリー」には「変則的なこと」「逸脱性」などの意味がある。マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)において、派手なアクションシーンを欠いたまま最終話までワンダのgriefを探求したのは「異例」であると言っても過言ではないだろう。スーパーヒーロー映画において、個々人の葛藤を深堀りするのは必然でありながら、どうしても最終幕におけるバトルへの足かせになってしまうリスクがある。長々と主人公が悩んでいるシーンを見せ続けられると観客は若干話に飽きてしまうかもしれないからだ。しかし、『ワンダヴィジョン』は、「この一見平和に思えたWestviewには何が起こっているのか」というミステリー要素を大々的に取り込むことにより、見る者の関心を損ねることなく、ワンダの悲しみの諸相に迫ることができたと言える。
 
 しかし、このMCUという世界における「自由な語り」は、最終的にその世界の「制約」に直面することになる。*1 最終話はこうなるしかなかったのは、製作者のインタビューを聞いてみても運命づけられたことであったようだ。MCU"でありながら"前衛的で挑戦的な物語には、MCU"であるからこそ"、「アノマリー」の状態を解消する必要があった。その結果が、ワンダ vs. アグネス & ヴィジョン vs. ホワイト・ヴィジョンである。もちろん、ヴィジョンの場合、規格外のパワーをぶつけ合うようなアクションシーンは唐突に終わり、哲学的対話に落ち着くのだが、明確な対立構造を提示した上である程度のバトルがないとアメコミ映像作品としては物足らない、ということになってしまった。換言すれば、いわゆるアメコミ映画らしい大団円を期待する者への妥協と言えるかもしれない。
 個人的に少し残念だった他の点としては、結局『ワンダヴィジョン』における番組「ワンダヴィジョン」の放送が突如終わった点である。あのテレビ番組のフォーマットを最後まで本シリーズのナラティブに活かすことが出来れば良かったのに、とは思った。
少し他の記事でも触れたが、ファミリー・ドラマのテレビ番組というフォーマットには様々な意味を見出すことが出来る。『ワンダヴィジョン』の全編を視聴した人にとってそのフォーマットの最も明確な意義とは、ワンダはアメリカの「古き良きファミリードラマ」の大ファンであり、ソコビアに密輸してきたDVDを家族で見るのが恐らく唯一の楽しみだった点に尽きるだろう。
 しかしながら、『ワンダヴィジョン』の内容そのものがそうであったように、アメリカのファミリー・ドラマには、必死に本国の抱える社会問題を後景に押しやり、あたかもその回で解決しないといけないのは家庭内問題でしかない、という前提なしに成立しがたいという側面がある。登場人物の住む郊外の外はないも同然なのだし、そこは言ってしまえば「きな臭い」空間であり、もっと率直に言えば「うさん臭い」のだ。その「うさん臭い」ところをかぎつけることで、『ワンダヴィジョン』の視聴者は真相に近づくことができたはずだ。 
 また、この『ワンダヴィジョン』は映画館の巨大なスクリーンで見ることを前提としておらず、いわゆる「スモール・スクリーン」と表現される、テレビ、パソコンやスマートフォンなどの画面で見るしかない点も挙げられるだろう。たとえ派手なアクション・シーンを用意したところで、その魅力はどうしても個人が各自で小さな画面で見る限り減退してしまうのだから、いっそのこと、テレビで見ることが常に想定されているフォーマットを製作者は踏襲したのだ。(おそらくファミリー・ドラマのようなカメラワークのコメディを見せられたら、観客は興ざめするだろう。もちろん例外は少なくないが、テレビ的な撮り方と映画的な撮り方は今なお大きく異なると言える)

*1:それがWestviewという場の制約と共鳴することは指摘しておいてもいいだろう。その制約とは、Westviewの外に出ることは決してできない、ということである。いくらWestviewでの暮らしが満足の行くものであったとしても、Westview以外の場所に移動できないとなると、そこは一種の「監獄」でしかない。ここまで説明するとジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』を想起する人もいるだろう