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アメリカンに映画を観る!

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『マージン・コール』論

 昨日、ケーブルテレビでたまたまやっていた『マージン・コール』(2011年・アメリカ)を観た。

(結末部分に触れています)

マージン・コール [DVD]

 2008年の世界金融危機の前夜から当日までの24時間を描いた映画。

 個人的には面白いと思ったんだけど、隣で見ていた親は「あんなラストでがっかり」という内容のことを言っていた。

 たしかに、スカッとするような結末では全くなかった。もう少しでいい感じの終わりを迎えられたかもしれないので余計だ。

 

 でも、思ったのだが、あの映画は群像劇の形式を取っていて、部下、上司、上司の上司が次々に登場し、主人公が一人だけいる訳ではない。ケビン・スペイシー扮する役が主人公だったのではない。

 この映画の主人公は、一度たりともスクリーンにでかでかと出てこない。主人公は「カネ」である。それに翻弄され、最悪人生の全てをコントロールされてしまった人間の映画なのだ。ケビン・スペイシー(サム)が、「俺は仕事を辞める!」と言ってその場を立ち去ってしまっては、彼が主人公になってしまう。それだと、この映画の本質から、ずれてしまうのだ。

 「墓穴を掘らずに済んだ」と言われた彼は「墓穴を掘っていた方が良かった」と返す。そしてシーンが変わり、彼は本当に「墓穴」を掘っている!!元妻の家の敷地内で、必死にシャベルで、愛犬の墓穴を掘るサム。そう、彼はカネ稼ぎに自分の全てを費やした結果、部下も、妻も(3人いると言っていた)子どもも、最後には愛犬も失うのだ。

 お金は、人々の信用があってこそのもの(”この紙切れは一万円ということで、皆さんいいですね?”と同意がなければ、一万円札もただの紙である)だ。決して、普遍的、絶対的な価値も持つものではなく、常にそれは不安定な存在だ。しかし、サムはそれのために自分の信念をひん曲げることになる。

 彼は、自分の土地ですらないところに自らを比喩的に葬り去るしかないのだ。

 この映画、”金の亡者”のロジックが何度も聞けるが、それはそれで一理ありそうな話なのだ。しかし、ラストでは、その罰を受けるサムの姿がスクリーン上に映る。そこに、カタルシスはないのだが。それゆえにこの映画の社会批判性というものを却って意識した。