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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

Stones in Movies Part II: ローリング・ストーンズと映画 再び

 

ykondo57.hatenablog.com

 ↑にも書いたのだが、『クルエラ』は面白かった。面白かったのだが、冷静になって考えてみると、音楽面で違和感も残る。たしかに自分でも知っている「クラシック・ロック」をがんがんかけて物語の駆動感を維持していたが、最後のシーンでローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』をクルエラ・ド・ヴィル(要するにデビル)とひっかけて流していたのだが、若干ありふれた使い方で、あまり芸がない。同バンドの『シーズ・ア・レインボー』を中盤でかけていたのと比べても新鮮味に欠けるように思える。

 前にもこのブログにも書いたのだが、ストーンズの楽曲は結構様々な映画に使われている。要するに使い勝手のいい曲が多いのだろう。構成やアレンジはシンプルかつキャッチ―なので、たとえ10秒くらいしか使わないとしてもその曲の世界観に入っていける。

 その一方で、例えばビートルズの曲を軽い気持ちで使ってみよう、としてもなかなか上手く行かない気がする。たしかにストーンズとは対照的に、使用許可が下りなかったという事実があることは承知している。しかし、例えば使用曲が全てビートルズのカバーである『アイ・アム・サム』や「ビートルズ・ミュージカル」である『アクロス・ザ・ユニバース』などの例を考えてみると、ビートルズの曲を使うのであれば、映画全体がビートルズ色に染まってしまうのかもしれない。

  そういう意味ではストーンズの楽曲には「偉大な取っ付き良さ」があるのだろう。という訳で、思いつく中で効果的なストーンズを用いている場面を以下にいくつか挙げてみる。なお、スコセッシ作品は選んでいない。

 

 

・『ボージャック・ホースマン』 シーズン3 最終話:「ワイルド・ホース」

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いきなり反則で申し訳ないが、ネットフリックスドラマから一曲。ストーンズの「野生の馬」という意の楽曲を、「半分馬、半分人間」が主人公であるアニメのシーズンフィナーレに使う率直さをあえて評価したい。自暴自棄な元売れっ子テレビ俳優がまたしても自分の人間(動物人間?)関係を無碍にしてしまい、再び孤独になってしまう場面に「ワイルド・ホース」がかかる。「野生」とは程遠いボージャックは、「社会」の中でも上手くやっていけないという現状を皮肉に炙り出すような選曲になっている。

 

・『スコット・ピルグリム vs. 邪悪な元カレ軍団』(2010): 「アンダー・マイ・サム」

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セカイ系」というジャンルがある日本にて原題のthe Worldの部分がなぜか「邪悪な元カレ軍団」と訳されているのが惜しい*1本作だが、結構さりげない形でストーンズの曲を使っている。(サムネの右側の)ラモーナとつきあうために、主人公スコット・ピルグリムは「元カレ軍団」と闘わなければいけないことになるのだが、突如ラスボスこと今の彼氏が現れるのだが↑の動画の場面だ。

 その彼は完全にラモーナを自らの支配下に置いており、その状況を"She's under my thumb"(彼女は僕の言いなりだ)という歌詞で結構さりげなくだが辛辣な形で描いている。登場人物たちが会話している中、丁度ラモーナの顔が車のウインドーが上がって見えなくなるところにこの一節をタイミングを合わせて入れている。とりあえず大音量で「悪魔を憐れむ歌」をかけておけば良いという問題ではない。

ykondo57.hatenablog.com

 そもそも映画はミュージック・ビデオの寄せ集めではないのだから、あえて既成曲を使うのであれば、それは「何となくかっこよさそうだから」ではなく、「物語に相乗効果をもたらすから」である方が望ましいはずだ。

 

*1:惜しいだけでなく、「元カレ軍団」の中には元カノもいたので、意訳を通り越してこれは誤訳でもある。ex-boyfriends(元カレ)ではなく、exes(元恋人たち)とラモーナが言い続けていたのにはちゃんと意味があった