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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

スパイダーバース 

 2000年代以降から当時の映画を観てきた人たちは、スパイダーマン映画史の生き証人であると言ってもいいだろう。サム・ライミの「スパイダーマン3部作」から始まったこの歴史は、マーク・ウェブ監督によるリブート、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)への参入(『キャプテンアメリカ シビル・ウォー』、『ホームカミング』)を経由して、2019年3月の時点では『スパイダーバース』で一つの頂点を迎えた。

 もちろん、どこをもって頂点とするかは個人の見解に寄るが、『スパイダーマン2』はシリーズ最高傑作として誉れ高い作品だろう。しかし、ライミ監督の三部作のうち、唯一劇場で鑑賞したのは最も評判の悪い『スパイダーマン3』だった。しかも、割と気に入っていた自分がいた。敵役が3人(?)登場する豪華な接待にあまり悪い印象を持たなかった。一方『スパイダーマン2』は近所のビデオショップの閉店セールにて購入したDVDで観たので、作品そのものの出来に関する所感よりも、その円盤から伝わる切なさの印象の方が強い。それゆえ、自分の色眼鏡が随分曇っていると思うという断りを入れた上で本文を続ける。 

 消耗感を個人的に覚えていたスパイダーマン・シリーズ(といっても何を指しているかはっきりしないところに一種の病理がある)に新たな光がさした、と表現するほかない。実写版にある種の視覚的限界があるなら、コミックの派手でポップなビジュアルに映画ならではの動きを加えればいい。リブートが繰り返される現状がマンネリ化し、そこに物語的限界があるなら、一人のスパイダーマンではなく、背景の異なる複数のスパイダーマンを映画に出せばいい。こうしたアメコミならではの「節操のないサービス精神」を導入することでこの映画は成立できたと言えよう。

 また、そういった具現化される可能性と対照的にどうしても避けられないヒーローの宿命も提示していたことも忘れてはならない。そこにはやはりスパイダーマンであることの悲哀がある訳で、それゆえジョークを飛ばしながら快活に戦い続けるスパイディたちの奥深さを見ることが出来る。

 しかしながら、スパイダーマンという物語のバトンはアニメでなく、また一旦実写版トに返される。10年来の大団円を迎えたMCUの製作陣はあの初々しい『ホームカミング』を乗り越えて、その功績に恥じない作品を作ることができたのか。