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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

ウディ・アレンの『カメレオンマン』から見るドキュメンタリーの神話

『カメレオンマン』はウディ・アレンによるモキュメンタリ―で、ゼリグという、あるトラウマ的経験をきっかけに、カメレオンのごとく周りに合わせて変態する人間になってしまい、アメリカ社会でセンセーションになってしまう男を描いたコメディ作品です。

 

ドキュメンタリーの神話

 ウディ・アレンの作品としては珍しく、本作はいわゆるモキュメンタリ―の形式を採用しており、我々が彼の作品に期待するような、ウディ・アレン自身の、若干パラノイア的なトーク、あるいは毒気の強い彼と(多くの場合)それを受け止めようとする彼の恋人とのダイアローグの力にあまり頼れない。たしかにミア・ファロー扮する博士とゼリグは録音されたという前提の下、催眠療法を通して会話するが、それは全編を通してもごく一部分を占めるに過ぎない。それでも、この映画があくまでも空想の現実的記録であるには大いに意味があると考えられる。実写映画と異なり、ドキュメンタリー映画にはある程度の、現実に忠実な記録性を求めがちだ。そして、そこに演出のいう名の“やらせ”が介在するとき、現実性を損ねたとして批判の対象となることは少なくない。その一方で、むしろドキュメンタリーの不可能性や虚構性に着目する制作側の人間もいる(もちろんそのことをわかっている観客も多い)。映画もメディアの一つであり、メディアである以上、主観の介入は、被写体の取捨選択や編集の必然性を念頭に置けば、ある種不可避なのであり、極論を言えば、全てのドキュメンタリー映像(あるいは報道)は“偏向”的であるのだ(中立性に関しては、イーグルトンの『文学とは何か』が示唆的である)。そして、『カメレオンマン』が虚構性に満ちており、歴史的事実にゼリグというフィクションが入り込んでいることは自明だ。つまり、ドキュメンタリーが現実をあるがままに描けないなら、その形式をフィクションを描くのに使ってしまおうということなのだ。

 ここに非常にトリッキーなのは、ナレーションのみを聞いているとゼリグのような超自然的存在はいくらなんでもあり得ない、と思えてしまうところ、数々の著名な知識人の言質を取っていることなのだ。ソール・ベロー、アーヴィング・ハウなどのリベラル知識人が、真剣な表情で、ゼリグという一社会現象を分析し、また本編の終盤では、過ぎ去りし奇矯な存在に対する、センチメンタルなものを彼らの表情から伺えもすることを考えると、起点がそもそも虚構だとしてもどこか信じてしまいそうな気分に陥る。

 ここがコメディ映画でありながら、末恐ろしいところだ。ソースがウソだとしても、権威主義的な振る舞いを我々は知らず知らずのうちに継続しているのならば、どこか受け入れてしまうきらいがあるし、そこから始まる伝言ゲームは回数を重ねる度にその現実味を増す。それは、現代社会の例からすれば、その中身を把握できぬ、サブプライム・ローンが無数に入った“福袋”がその空虚な信頼性をいたずらに引き上げていったことと重なる。そしてそれ以上に重要なのは、この伝言ゲーム的コミュニケーションはデマの温床だということだ。まさしくナチのプロパガンダは、嘘を繰り返すことで、そもそもねつ造されたユダヤ人に対する陰謀論に、根拠のない信頼性を培養していったし、大衆の間で伝えられていくことで、その言説への懐疑度も下がっていった。現在の我々も、アポロの月面着陸、9・11、3・11、在日外国人等に関する、陰謀論が、虚偽を火種とし、ネット上で単に数を増すことで人口に膾炙しかねない状況を生み出している。このように考えると、権威主義的な、あるいは多数による言説を鵜呑みにする傾向を、このモキュメンタリ―という形式が暴いてしまっていると考えうるだろう。

他のウディ・アレン作品の考察はこちら

 

ykondo57.hatenablog.com

 

ポッドキャスト第一弾 マッドマックス怒りのデス・ロード解剖~コメディ映画?フェミニズム?赤と青の意味?

Mad Max: Fury Road [Blu-ray + Digital Copy] (Bilingual)

とうとう出来ました。ソフト化を記念して、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』についてディスカッションしました。

http://feeds.soundcloud.com/users/soundcloud:users:32797342/sounds.rss (←スマホならそのままポッドキャストに登録できます)

アメリカンに映画を観る!!

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投稿、質問、コメントはamericanniega@gmail.comにまで。

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今回は、主に『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』についてわちゃわちゃ論評しました。アクション映画として、そして傑作カルトムービーとして誉れ高いこの映画は、フェミニズムの論点からも称賛されました。そこを出発点として、様々な点から議論しました。
主なトピックス
-海外でのネットフリックス事情
-マックス=コメディアン?
-どこがフェミニスト映画なのか
-我々はモノではない・・・我々って誰?
-感動的な殴り合い
-赤と青の意味
-フェイスブックの原点は下らない

 

バック・トゥ・ザ・フューチャーを振り返る

 もう終わってるじゃないか!という声もあるだろうが、時差の関係で本国アメリカはまだ21日でした。やはり一大ブームを巻き起こした有名な映画だけあって、日本は言わずもがな、アメリカのメディアは結構ネタにしているようだ。

30年後の「未来」に着いた 「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」2015年10月21日:朝日新聞デジタル

'Back to the Future' fans to get second shot at Pepsi Perfect - Oct. 21, 2015

 どこまで映画が描いた未来に追いついたかという検証が面白い。もちろん空飛ぶ車は出来なかったし(物凄い燃料が要るし、逆に事故が多発して、車が空から降ってくるのが日常茶飯事になってた・・・かも?)、カブスは今年もワールドシリーズ優勝は無理そうだ。ジョーズの19作目はもちろん映画化されていない。極小

 だが、ホバーボードや、自動に靴紐を結ぶナイキのスニーカーはどうにか実現している(しそう)ようだ。Kinectのように、何も持たずテレビゲームを楽しむことは可能になったし、メガネに映像が映るという、グーグルグラスも商品化されたし、顔の認識機能はごく普通のことになった。スカイプで首宣告(トイレにファックスはいらないと思うが・・・)も可能になった・・・まさしく『マイレージ、マイライフ』で実行寸前まで行ったことだ。決して絵空事ではない。

 もっと興味深いのは、本作の2人の脚本家は別に未来を予言することに関しては全く興味がなかったことだ。単にいい映画が作りたいから、奇抜な設定を生み出していっただけということだろう。古着からバイオエタノールを抽出して燃料とするデロリアンのレプリカまで出来てしまったのだから、むしろこの映画によって、今僕たちの生きる”い未来”は一部形作られていったところも当然あるだろう。

 

 

キングスマン解説~幾層にも重なる教会シーンでの黒い笑い

『キックアス』『X-Menファーストジェネレーション』監督マシューヴォーンが手掛けた『キングスマン』は相変わらずのブラックユーモアまみれの、それでいて正攻法の傑作スパイ・アクション映画だと思う。

 今回は、あの教会シーンでかかっていたあの曲の意味を主に考えていこうと思う。

 あの殺陣(たて、ではなく本当にさつじんと読んだ方が適切に思えてしまうほどのシーンだったが・・・)の後ろでかかっていたのがこの曲である。

 

www.youtube.com

 洋楽ファンの方はご存知かと思うが、この曲は70年代のロックシーンにおける名曲だとされている。

 リナード・スキナードという、サザン・ロックと言われるアメリカ南部発祥の音楽で有名なバンドによるこの曲は、それゆえに南部のごりごりの教会のシーンでこの曲を流すというのはとんだブラックユーモアなのは町山智弘氏もラジオで解説している。

 ただ、この曲の背景を考えてみると、その黒い笑いはそんなところでは終わらないのだ。

 全くこの曲が知らない方が一聴してみると、驚くかもしれないが、この前半は至って感動的なバラードなのである。

 もし僕がここを離れても、僕のことをずっと覚えていてくれるだろうか

 なぜって、今もう旅立たないといけないから 

 行かなければいけないところが多すぎるんだ

 でも、君と一緒にいても

 もうそれは同じことにはならないんだよ

 なぜなら、僕は今鳥のように自由なんだ

 そしてこの鳥を変えることは出来ない

 僕は元には戻れない

 どうも恋人を置いて、どこかへ旅立ってしまう曲に思える。間違ってはいないのだが、この曲は、オールマンブラザーズバンドの二人に捧げられている。

 オールマンブラザーズバンドとは、リナード・スキナードの先輩格のバンドで、サザン・ロックの雄だ。そしてこのバンドの名物ギタリストのデュアン・オールマンは、スライドギターの名手として知られていた。しかし、その黄金期において、突然の交通事故で当バンドのベーシストとともに命を落とす。 

 そんな不運に見舞われたバンドへ敬意を表して、この曲で出てくるのは言わずもがな、スライドギターである。そして、その亡くなった二人は自由になった鳥であると、ライブのMCでリードボーカルが言ったことがあるそうだ。

 そしてこの前半部分は実はあのシーンの早い段階で教会のオルガンから鳴っていた。そこにあの強烈なギターソロの応酬が入ってきてとんでもないことになる。前半部分に胸を熱くさせ、後半部分に燃える名曲がこんな使われ方をしていたのである。

 実はこの曲にまつわる話はまだあって、奇しくも、リナードスキナードの主なメンバーも旅客機事故で数人亡くなっており、オールマンブラザーズバンドと同じような運命を辿ってしまったのだ。

 そう考えると、南部的なものを徹底的に潰していったあの映画のあのシーンのあの曲の意味はかなり重層的なものになってくる。あの黒い笑いもかなり複雑だったのだ。

 

 

マッドマックス再訪

 幸運にも、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』DVD・ブルーレイリリース記念の試写会に行ってきた。ブルーレイ上映なので、画質の点で序盤は若干気になったものの、本作に再びのめりこむのにはさして時間はかからなかった。

 当作品に関しては、来週には始めようかと思っているポッドキャストyoutubeに3本ほど挙げた解説音声とは別のもの)の第一回は、やはり『怒りのデス・ロード』を再び扱い、結局海外では具体的にどのような観点でもって論じてこられたのか、そしてそこから更なる見方は出来まいか、と緩くもしっかりと論じていきたいと思うので(一応の試論はこちら→

 

ykondo57.hatenablog.com

 

、詳細は別の機会に譲るとして、何故か鑑賞後『スパイダーマン』シリーズを思い出した。

Spider-Man: The Movie (輸入版)

というのも、マッドマックスが、女性(もちろん男性も頑張ってますが)が四の五の言わず生存のため奮闘する話だとまとめるなら、スパイダーマンはメリージェーンあるいはグウェンが自由落下しまくってキャーキャー叫んでる話だから。『アメージング・スパイダーマン2』のことを「ミソジニ―映画」だと苦言を呈した声を個人的に知っているが、それはその作品のプロット単一の問題ではないだろう。スパイダーマンフランチャイズの作品群は、抵抗することもあまり許されぬ女性がクモ男に助けてもらうという話がプロットの原動力となっていることを考えると、悲しいが不可避なのかもしれない。

 ただ、よく考えてみれば、スパイダーマン(最初のシリーズ)を作る前に、サム・ライミ監督は『ダークマン』で女性を落として、キャーキャー(厳密にはキャーだが)言わせている。もう既にその兆候は見えていたのか。

猿の惑星 新世紀から一年

 気づけば、あの『猿の惑星:新世紀』からもう一年が経つ。

 このブログで感想はまだ書いていなかったものの、かなりの傑作だった。猿対人間の抗争の構図に、人間社会における(あるいは国際社会における)避けられなかった闘いの構図を見出した人々は多くない。というか、むしろその戯画的構造について考えざるをえないような迫力のある映画になっていた。長寿ポッドキャストの、Filmspotting(米国でのポッドキャストでは上位を占める)では、この映画にシェイクスピア的なものを感じ取っていた。正直なところ、どの構図が最も適しているかはそこまで問題ではなく、むしろそれほどの普遍性を一本の映画にきちんと付与出来たことこそが重要だろう。

 ただ、個人的にそれだけでこの映画を「かなりの傑作」と呼んだかどうか、今ではわからない。しかし、『モールス』『クローバーフィールド』を手掛けた、マット・リーブス監督であるだけあって、長回しのシーンにはぐっと来た。コバが人間たちの戦車を奪って、それを乗り回すシーンでは、その迫力もさながら、醜い戦いをぐるりと360度一望出来てしまうことで、観客はその陰惨さを思い知らされることになる。また、どこに敵の猿が隠れているか分からぬ状態で、空き家を息を殺して主人公が歩く長回しにもかなりサスペンスがあって、見ごたえのあるワンシーンだった。

 このように、大まかなプロットももちろんだが、カメラワークをとっても、傑作と言って申し分のない出来の映画だったと思う。何せ、登場していたのが猿であることをすっかり忘れていたし。

 

アントマン レビュー

 ”アントマン”を観てきた。

 

 Marvel Cinematic Universeの第二弾がこれで終わりらしい。(ちなみに第一弾はアイアンマンから始まり、アベンジャーズまで)期待通りの良作で、まさに宇宙のごとく拡張することを止めないマーベルの作品群が量産されることにうんざりくるどころか感服すらしてしまう。

 当初は『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ワールズ・エンド』でもお馴染みのエドガーライトの脚本・監督の作品になる予定が、急遽変更し、コメディ畑の監督になった。しかも共同脚本のクレジットの中にいるのが、アダム・マッケイ。『俺たちニュースキャスター』などで知られるコメディ映画の監督である。

 という訳で、この映画は真剣なアクション映画というより、もっとライトなコメディ映画として観る方が楽しめる。『マイティー・ソー』とか、『キャプテン・アメリカ』よりも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のイメージに近い。

 またしても地球滅亡の危機を回避するために立ち上がるヒーローの物語ではあるが、マーベルの世界なら、アベンジャーズを呼べばそれで済むのでは?という疑問は極めて全うだと思うが、ちゃんとそれは処理した上で楽しめる一本となってはいるが、ちゃんと接点もあるのであまりこじつけだとも思わずに済む。

  この映画で一番笑えたのは、陽気なメキシコ系のこそ泥の独り芝居だ。誰だれが、誰だれに話して、それをまた誰それに~と本筋から離れ続けるこのシーンでは、彼の話す一語一句が、口パクのように他者と連動していくところが可笑しい。これはエドガーライトの脚本からだろうと思ってたら、映画秘宝のインタビューを読んでてみると、違うらしい。インタビューのニュアンスから察するに、エドガーライトのよりも、より面白おかしくなっているようだ。そういわれると余計にエドガーライト版も見てみたかったと思う次第だ。