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アメリカンに映画を観る!

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マッド・マックス試論(解説・分析)

以下の内容以外のこともポッドキャストで解説しています。

アメリカンに映画を観る!!

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 『アナと雪の女王』が、その驚異的な観客動員数のみならず、かなり映画評論が活発であった(言っておきたいが、だからといってその作品の絶対評価が、ピクサー作品の一連の作品内群を抜いて良い訳でもない)映画であったことは記憶にまだ新しい。例えば、中森明夫氏の刺激的な論考が中央公論に掲載されなかったこと*1や、TBSラジオで、荻上チキが語ったディズニープリンセス系譜という視座からの分析は後に新書として出版される*2といったことがあった。本作品マッドマックス怒りのデス・ロードもジェンダー(社会的に形成された性別に対する考え方)的観点から本作品を激賞する動きが伺える。クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』がまあまあの評価を受けた、アメリカの評論サイトRotten Tomatoesでは、98%(つまり100人の映画評論家の内、98人が高評価したということ)をマークしている*3

 前置きが長くなった。今回の僕の投稿は、単なる感想と、濃密な分析の間に属する、小論だと考えてもらえれば光栄だ。

 いかに、ワンダフルでヒャッハーな映画かは、普通にマッドマックス・感想で検索してもらえれば一目瞭然かと思うが、個人的に気になったのは、アレゴリー満載(寓話性、名前自体が本人の特性・本質を語っている)の名前設定だ。マックスは、まあ最高潮(怒り、あるいは狂気MADが)を意味するのはいい。ヒュリオーサはfuriousつまり怒り狂う、激高の意だ。(だから、副題がFury Road,怒りのデス・ロードになっている。デスは邦訳の際付け加えられているが、これはいい補足だと思う)問題のナックスなのだが、調べてみたところ、価値のないモノという意味らしい*4

 We Are Not Thingsという強烈な一節があったが、あるツイートが指摘するように、

 あれは、人間製造の機械として搾取される(文字通り、搾り取るイメージとしては、母乳を恰幅のいい女性たちから乳牛のごとく搾り取っていたシーンを考えてほしい)若い女性だけの話ではない。もやしのごとく、日光の当たらない地下で飼われているWar Boys(まさに特攻隊なのだ)は、設定上、ガンに侵されていて、そのほとんどが白血病になっている(注釈4のリンク先を参考)。吸血鬼のごとく、他人の血により生き延びている。だから、輸血袋としてマックスが使われている訳だ(血液型とか大丈夫なのかよという疑問はさておき)。要は輸血袋→War Boys&ジョーの妻たち→イモータンジョーたちと、搾取の連鎖が続いている訳なのだ。ジョー以外誰も得していない訳だ。と思ってみても、ジョーはジョーで全然次の種が芽を出さない訳だ。もうかなり老いているが、それゆえなかなか子孫が出来ないという葛藤に悩まされている。そこで、皆逃げちゃうんだから、そりゃぶちぎれますよね(まあそれこそ自分で撒いた種なんだが)。

 さて、この映画は元来た道を行って戻るだけのロード・ムービーという、超シンプルな構造になっているのは、真魚氏の評論でも書かれているとおりだ。ただ、その言って帰るだけが、文字通り「死ぬほど」難しい。というか、ハリウッド映画などは特にそうなのだが(分かってます、本作はオーストラリア映画です)、ロード・ムービーというジャンル自体、一応行った道をそのまま戻ろうとするものであるが、行き道と帰り道は本当に全然違ったものになっている

*5。ただ、更なる命の息吹でもある、植物の種(つまり希望である。しかも水がたくさんあるのがその地の自慢)を彼女たちは無事に自らの砦に持ち帰る。だから、暴君がもはやいなくなった中、アマゾネスのごとく彼女たちは君臨することになる。マックスは自分の仕事は終わりましたよと言わんばかりに、無言でその場を去っていく。そういえば、この作品、続編もあるそうだ。あんまりこの作品の設定にこだわらずに、つまり前作との繋がりはあまり意識しなくてもいい形で作ってほしい気はする。(役者も変わってても文句は言いません)

 

 一応ジェンダー的観点から僕の思うことを最後に蛇足ながら記しておきたい。フュリオーサとマックスとが、自らの生存を賭けて、「レディーには優しく」とか「女の子は乱暴しない」とかいう陳腐なステレオタイプをかなぐり捨てるかのごとく、ひたすらフェアにそして対等に殴りあいまくるのは観ていて、個人的にかなり印象的だったし、少し胸が熱くなった。その用な、ジェンダーの枠組みに縛られずに、力をクサくならない形で合わせていくところが評価されたのだと思う。まあ、ただ、これがジェンダーの向かう最終形だと思うのはちょっと違う気がする。今の映画の状況を考えると、最良であるとは思うが。この映画の描写を最大限に評価し、綿密な議論をしている。この記事でも

lite.blogos.com

フェミニズムに気になるところはいくつもある」と書いている。私もその点に関しては同意している。というのも、よくいうマッチョイズム的(男性のマッチョで、強くたくましいものが理想とされている状態)な要素が拭えないからだ。たしかに性差を超越している場面もあるにはあるが、女らしさを捨て、マッチョにタフに戦う姿はどうも男性>女性というジェンダー的構図を完全に脱構築している訳ではない。要は女性が男性らしくなっているだけになってしまっているだろう。(例えば、ターミネーター2とか、アバターとかみたいなマッチョな女性に監督がちょっと酔ってしまっている映画よりは断然違和感なく楽しめる気はする)

ただ、弁明しておきたいのは、これはいわばたまねぎの皮を二回ほど剥いただけの皮相的指摘だということだ。つまり、男女平等で性差別なんて無い世界だ!と評価するのが、第一層とするなら、先述した、でも男性と女性との構図は別に変わってないんじゃないの?とするのが第二層と私は考えている。多分、第三層には、いやその構図すら脱構築しているよ、という議論があるんだろうが、そこまでまだ私の中でも整理が出来ていないので、とりあえずその可能性があることだけは指摘しておきたい。

前回の投稿でも書いたが、ジェンダー的賞賛・批判の両面を提示したつもりだが、だからといって私がこの映画に対する高評価を下げたいか、といわれたら、それは全くをもって「否」と言いたい。この映画はそういったディープな分析にも耐えうる映画であるとともに、とりあえず自分の野性とか動物的本能のリミッターを完全に外して楽しむ映画だと思うからだ。まだ二回目観られていないが、また早く観たいものだ・・・

 

ykondo57.hatenablog.com

 

 

ykondo57.hatenablog.com

 

*1:http://blogos.com/article/90460/でその幻の論が読める

*2:Amazon.co.jp: ディズニープリンセスと幸せの法則 (星海社新書): 荻上 チキ: 本

荻上チキ・SS22 ディズニープリンセスの進化の変遷 - YouTubeを基にしている

*3:http://www.rottentomatoes.com/m/mad_max_fury_road/

*4:http://madmax.wikia.com/wiki/Nux

*5:恐怖の報酬~アメリカン・ニューシネマ的ロードムービーとして観る - アメリカンに映画を観る!)でも言及しています)。

  ここでさらに皮肉なのが、この世で一番豊かな土地が、あれほどヒュリオーサが苦しめられた(誘拐されてここへきたと言っている)ところだったということだ。『オズの魔法使』でも、There’s no place like home(我が家ほどいいところはない)という有名な一節があるが、まさにそうなってしまっている。これは例えばアメリカの黒人奴隷が瀕したジレンマと同じだ。奴隷がいざ逃亡に成功したところで、実は逃げてきた家の物質的な生活環境を上回れるのかという話だ。(食べ物はある、家も金もある。ただ、それを持っているのは彼らではないのはもちろんのことなのだが)それで実際に戻ってきたケースもあるそうだ。搾取の構図はそのように常にジレンマを孕んでいる。

 この村上龍の『希望の国エクソダス』の有名な一節を流用すれば、ヒュリオサ一味は「何でもあるが希望だけがない」場所へ戻る((厳密に言えば、「この国には何でもある。だが、希望だけがない」。今月号の文芸春秋における、村上の最新作『オールド・テロリスト』関連の対談の際でも引用されていた