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アメリカンに映画を観る!

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Woody Allenなるものを求めて~『ミッドナイト・イン・パリ』論

今回は、5000字近い論考なのですが、大学の授業で書いたものを少し修正したものです。

 

 

        ”Midnight in Paris”は、ウディ・アレン監督の41作目にして、最大のヒット作となった。作品は、アカデミー作品賞にノミネートされ、脚本賞受賞に輝いた。映画評論家としてピューリッツァー賞を受賞したRoger Ebertもこの作品を賞賛している。はたして、ウディ・アレンという”treasure of the cinema”から生まれたこの作品には、どれだけの「彼らしさ」「ウディ・アレンなるもの」が反映されているのだろうか。本稿では、この映画における「ウディ・アレン性」を主に3点に大別して考察していきたい。

1ウディアレン性①~インテリ 

            ウディ・アレンには、知識人あるいは、インテリぶった人間がしばしば登場する。彼自体の最終学歴は、ニューヨーク大学中退なのだが、ニューヨークで中産階級生まれたユダヤ系として、彼の知的な要素が自らの作品に投入されているのは自然なことだと言えよう。ステレオタイプとして、都会のユダヤ人は左翼的思想を持っていてインテリであるということがある。

            ここで一つ指摘しておきたいのは、登場するインテリが総じて揶揄の対象となっていること、及び、知性をもって知性を茶化すところである。このテーゼは彼の作品で、形式を少しずつ変えながら繰り返し提示されるものだ。Midnight in Paris以外の彼の作品からだと、『アニーホール(1977)』が一例として挙げられる。

            主人公は監督自身が演じるアルヴィ-ウディ・アレン像がそのまま投影されたかのようなキャラクター-と、ダイアン・キートン演じる(元恋人、つまり彼は彼女との恋愛経験を元に映画を作っている)アニー・ホールとの恋愛が、当作品の本筋なのだが、アルヴィは、日常会話レベルでも、フロイトの理論を引き合いに出して精神分析について語るシーンがある。Roger Ebertも”more intellectual wit and cultural references than any other movie ever to win the Oscar for best picture”と言っているように、この映画にはふんだんに、ほとんどアルヴィによる知的な言及がなされている。しかしながら、知的に振る舞おうとするアルヴィのロマンスは成就せず、むしろ、彼が、アニーを彼の知的レベルに合わせようとする反面、彼女が賢くなるとそれを良くは思わないという、矛盾して、ナーバスな彼の不完全性・情けなさが、ペーソスと笑いを含めて描かれている。他にも、『マンハッタン (1980)』では、ダイアン・キートン演じるメリーが、絵画の話を気取りながらもしているのを聞いたあと、「名前を間違えている」と散々批判しているコミカルな場面がある。

            そこで、Midnight in Parisの場合を考えてみる。まず、主人公は監督曰く、「元々は東部のインテリ」だったという。それがカリフォルニア出身という設定に変えられたものの、彼は作家志望ということで、非常に文学に詳しい。プロット上知らなければ話が進まないものの、これはウディアレン映画におけるパターンがここでも表出している。そして、重要なのが、彼の婚約者、イネスの大学時代の先輩、ポールである。彼は映画の中でも、“ペダンチック(衒学的)”であると形容されていた通り、自らが持つ知識を総動員して、何であれ解説したがる人間として描かれている。ただ、その知識が必ずしも常に正しい訳ではなく、実際に1920年代にいたギルに事実関係を訂正されてしまう。ここでも、知的な会話を通じて、彼のようなインテリの欺瞞を揶揄し、主人公のような知性をもって、彼のような知性に立ち向かっている構図が当てはまる。

  1. ウディ・アレン性②~音楽・タイトルシーン

      次に挙げられるのは、彼の映画で使用される音楽や、タイトルシーンである。彼はジャズ音楽を好み、自身の映画でも使われる音楽はほとんどジャズだ。彼の最新作である『ブルージャスミン(2012)』でも、重要となってくる音楽がジャズのスタンダード、”Blue Moon”である。『マンハッタン(1980)』においても、Rhapsody in Blueが冒頭とエンディングに二回用いられている。BBCによると、”the music isn’t the same, but it’s often from the same genre and from around the same time period.”(音楽こそ同じでないにせよ、その曲は同ジャンル・時代からのものであることが多い)そしてその音楽というのも、往年のジャズ音楽(いわゆるスタンダードがメイン)であることが多い。ウディ・アレン自身も、クラリネット奏者で、自分のバンドで演奏している。アカデミー授賞式に出ずに、クラブでクラリネットを吹いていたと報道されたこともある。

                タイトルシーンでも、ウディ・アレンのパターンが見出せる。同じフォントとアレンジを用い続ける彼の一連の映画には一貫性があると言えるのだ。もちろん、サスペンス、ミステリー、ドラマ、コメディと彼自身が扱うジャンルはたしかに多様ではあるのだが、そこに彼の嗜好は一貫して示されているのだ。

3. ウディ・アレン性③~ノスタルジーか否か   

 最後に、この映画の最も根幹にある“昔はよかった”と思うこと、つまりノスタルジーについて、既に言及してきたウディ・アレン像を念頭に置きつつ、検討したい。この映画の結末は、オーウェン・ウィルソン演じるギルが、現代のパリで-永住とは言っていないものの-暮らすことを決断する。それはもちろん、ピカソの愛人であったアドリアナとベル・エポックの時代までにもタイムスリップしたことを受けてのことではある。主人公の最終判断というのは、1)現代のアメリカに婚約者と共に戻る、2)過去のパリに残るという二つの選択肢のどちらにも属さぬものである。はたして、これは単純に、過去の否定ないし現在の肯定だったのだろうか。まずは、他の映画を比較対象にして考えてみたい。

 映画の中で描かれるノスタルジーというテーマを考察するにあたってしばしば比較検討されるのは、『ALWAYS3丁目の夕日』と『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』である。浅羽通明の『昭和30年代主義』において、当2作品は、日本国民が抱く、「昭和ノスタルジー」というテーマをほぼ同時期に扱った映画であるが、そのテーマに対する結論が対照的であるとしている。

前者の場合、昭和30年代の下町を舞台とし、「当時はあった」人々の間の繋がり、人情が見て取れる。また、未完成の東京タワーに象徴されるように、物的な豊かさはなかったものの、そこから日本という国が右肩上がりで成長し、全国民が将来に希望を抱いていたというテーゼもある。換言すれば、「昔はよかった」という「昭和ノスタルジー」がこの映画には存在し、またそれゆえにこの映画は、大ヒットしたのである。「過去の肯定」が人々の心をつかんだのである。

その一方、後者の映画の場合だと、幼稚園児で主人公の野原しんのすけは、イエスタデイ・ワンスモアという、大人たちを「昭和の匂い」によって洗脳し、文字通り子供のころに戻してしまう秘密結社に対抗し、最終的には彼の熱意により(物理的に彼らの計画を阻止できたわけではない)、その秘密結社はその計画を諦める。ここで繰り返されるテーマは、「現在の肯定」である。今を懸命に生きるからこそ、更なる可能性を切り開くことが出来、「昭和ノスタルジー」に固執する限り、前進はないという力強いテーゼがこの映画でははっきりと示されている。

こうして、二項対立的にノスタルジーに対する思想を考えてみると、 Midnight in Parisの主人公は、後者の立場にあるように思える。しかし、彼の選んだ道は「第3の道」だった。現代には帰還したものの、アメリカでも他の国でもなく、パリに残ったのである。もちろん、彼がアメリカに帰りたくなかったのは、別れることになったイネズがアメリカに帰国するのだから、同じ国に帰るのは気まずいのは理由としてあるだろう(映画としてもどこか据わりが悪い)。ただ、今まで見てきたウディ・アレン自身の考えを念頭に置くとこの「第3の道」が最善の選択であるのは当然だと言える。端的に言えば、アレン監督も主人公も、「現代を含むあらゆる時代の絶対的価値」は認めていないものの、同時に「ある時代のある文化」を「特に好む」という情緒的判断は下しているということである。一見、この二つのテーゼは矛盾しているようで、両立しているのだ。

    先ほどの『クレヨンしんちゃん』の例で言えば、現在>過去であり、『3丁目の夕日』だと現在<過去である。対照的に、この映画の場合だと、主人公が“Because if you stay here and this becomes your present, sooner or later you'll imagine another time was really the golden time” と言っているように、「どの時代が特に良い」という時代の価値に優劣をつけるという判断は保留しており、各々の時代は相対化されている。主人公が現代に戻るのは、”the present has a hold on you because it’s your present”と彼が言うように、単純にそこが彼の生きる時代であるからという理由である。ただ、前述したように、アレン監督がパリの歴史感あふれる町並みをとりわけ好み、ジャズを彼の映画では好んで用い続けることから、様々な文化に対する嗜好は明確に提示されている。そして、この二つの思想の並存は、善悪と美醜といったような二項対立的概念を混同することが的確でないのと同様に、別のレベルの問題であって、この映画において矛盾している訳ではない。(映画監督を半世紀近く務めていながらもほとんど変わっていないという事実を再び強調しておきたい)

おわりに

 上で見てきたように、映画作家ウディ・アレンが手がけた映画におけるウディ・アレン像をインテリ・音楽・ノスタルジーという主な3つの観点から考察してきた。過去へのタイムとリップものでは、過去が美化され、その通念が覆されぬまま終わることが多い。(『3丁目の夕日』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』等々)しかし、ウディ・アレン氏は、知的階層の人間として、過去というものをクリティカルに捉えようとする一方で、自らの音楽に対する愛情に代表されるような、彼の嗜好は変えず、この映画を作り上げていった結果、こういったエンディングに行き着いたのだと考えられる。