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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

なんてクリスマス映画だ!『34丁目の奇跡』

 (ポッドキャストでクリスマス映画について話すと告知していましたが、ブログ形式で一本ずつ紹介する方が妥当だと考えました、すみません)

 町山氏のブログや映画塾にも詳しいが、『34丁目の奇跡』という定番のクリスマス映画がある。

 ニューヨーク・有名デパート、メイシーズが催すクリスマスニューヨーク。恒例の感謝祭のパレードに、サンタクロースおじさん役として雇われた、見事な白髪白髭を持った老人クリス・クリングル。ところが彼が、“私は本当に正真正銘のサンタクロースなのです”と言い出したことから、周囲は大騒ぎに。サンタが本当に実在するか否かをめぐる一大論争は、とうとう法廷の場にまで持ち込まれていくのだが……?(WOWOWサイトより http://st.wowow.co.jp/detail/2376)

 これは一見「子ども」向けの心温まる映画だし、一見というか、本当に感動するような傑作映画なのだ。

 しかし、「子ども」を見る「大人」の視点からこの映画を考えるのも興味深いだろう。というのも、よく見ると、大人の事情に”まみれた”大変リアリスティックな映画なのだ。

(以下ネタバレの要素もあります)

  サンタは実在しないという現実的なことを叩き込まれている少女が登場すること自体がまず驚きだ。さらに70年近くも前の映画なので、母親がシングルマザーであることもかなりインパクトがあるように思える。実際、彼女は夫に浮気され、離婚されてしまったことに深く傷ついている様子が描かれる。

 さらに、メイシ―がクリスマスに便乗しておもちゃを売りさばこうとする大人の事情が出てくる。しかし、「良心的」なサンタ役のクリス・クリングルは子供のことを思って、彼らの欲しいおもちゃがないと知るや、他のデパートを紹介する。本当は、サンタ役としてメイシ―で親を買い物させるのが目的なのにもかかわらずである。その方針が良心的な対応であると大うけしたせいで、結局ライバルのデパートも真似しだす。結局サンタの良心が商業主義という火に油を注ぐこととなってしまっているという皮肉が提示されてしまっている。

 クリスは、今やクリスマスの精神が人々から欠落してしまっていることを憂うのだが、基本クリスマスと商業主義は相互依存の関係にあることを、メイシ―のことを悪く描かないことで却って示してしまっている訳だ。

 さらに、サンタの描写が実はリアリズムなのも面白い。単純に技術的なことだと考えるのは容易だが、この演出により本当に彼がサンタであったかどうかは実証されないままなのだ。よくあるクリスマス映画の定型から言えば、ひげがひとりでに生えたり、そりで空を飛んでいたり、超自然的現象でもっと、サンタがサンタであることが証明される。しかし本作ではサンタが裁判にかけられるという生々しい(?)展開を迎えるのだし、自力でサンタが実在することを証明する術が実は全くないのである。

 加えて、裁判官も選挙のために民衆の前ではいい顔をしなければいけないという大人の事情がしつこく描かれるし、どうも本作に登場する大人たちは本当にサンタを信じていると子供の前で言うものの、いないのは知っているが、信じたかっただけであることがラストシーンでよくわかる。

 本作で示される、サンタの実在性とは、「いないものを信じる」ことにあると集約できよう。つまり、本作のラストで、少女が求めていた家の中に杖があったことは、実際のところ、サンタの実在性をクリアに証明するものには必ずしもならない。

 町山氏は、本作を宗教性を排した映画だと評していたが、敢えてメタファーとしてこの考えを読み込むとすれば、「必ずしも証明できないものを信じる」ことはすなわちキリスト教的な宗教心であると解釈することは出来よう。目に見えないものを信じるという力強いメッセージは、却ってサンタがやはり不在の存在であることをより強調する、「サンタなき現実世界」の鏡となっているのかもしれない。