前回は、この映画の紹介(きっと、星のせいじゃない。~単なるティーン映画扱いするには惜しすぎる - アメリカンにアメリカ映画を観る!)
をしましたが、今回はその解説版です。
結末部分に触れている箇所がありますので、未見の方はご承知の上で。
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』解説動画 - アメリカンにアメリカ映画を観る!
☆タイトル
原題はThe Fault in Our Stars。これは、シェイクスピアの戯曲、『ジュリアス・シーザー』をもじったもの。直訳すると、我々の星の”せい”。『ジュリアス・シーザー』の原文は、”とすれば、ブルータス、罪は星にあるのではない、われわれ自身にあるのだ・・” と意味が逆になっています。原作者のジョン・グリーンは、その意味を敢えて逆転させて、「罪は星のせいにある」という意味のタイトルにしたとされています。
じゃあ、この”罪”とは何なのか?一番確実な答えは、メインキャラクターの二人を蝕むガンでしょう。ただ、これは運命のいたずらを恨んで悲観的に生きるのではなく、自分たちではどうすることもないものを抱えながら、自らの道を切り開いていく話であるのは、映画を観た後なら断定出来ることでしょう。邦題は、全く意味が逆になってしまっているので、タイトルの含意が生きてこないのは事実です。(映画の雰囲気を上手くあらわしていると思うので、評価はしてます)
☆作家ヴァン・ホーテンのたとえ話
観ていて一番よく分からなかったのが、酔ったヴァン・ホーテンが、二人にするたとえ話でした。整理してみると、
1)まずヘイゼルが、ヴァン・ホーテン著作の結末後の展開を聞こうとすると、突然スウェーデンのヒップホップを聞き出す。どういうことです?とガスが問いただすと、「この歌声が感じていることが分からないのかね?」と”分からないものには分からない”と言い捨てます。
2)次に彼が切り出す話題は亀と人間(アキレスですね)のパラドックス。人間が100m後ろからスタートして、人間が100m歩く間に亀は1m歩く。ただ、人間がその1m分を歩く間に亀はまた前進する。これを繰り返していくと差は縮まるのですが、決して人間は亀に追いつけない、というパラドックス。それでもよく分からんという人はこちらをどうぞ→
3)ガスのお葬式で、ヴァン・ホーテンが切り出したのは「トロッコ問題」。これは、NHKの「ハーバード白熱教室」でもおなじみのマイケル・サンデル教授が用いた話でもあります。
(中略)
- (1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか? (Wikipedia トロッコ問題 より)
1)から振り返ってみましょう。
一見、無関係のように思える一話ですが、これは一応この本の説明になっているのかと思います。つまり、後に分かるように、ヴァン・ホーテン氏の作品に登場する、ヒロインAnna(ガンにより亡くなる)は、彼の娘が元になっていることが分かります。「分からない者には分からない」、そして字面の下にあるものを読み取ってくれ、という話なのかと個人的に考えました。
2)は、実は伏線になっていたのは、教会でのヘイゼルのスピーチから分かることです。いわゆるゼノンのパラドックスで、ヴァン・ホーテン氏が言いたかったのは、無限にも大小があるということです。例えば、0から1の間には(0.1,0.11,0.111.....)、小数点を連ねていけば無限に数字が見つかる。しかし、それが0から2の間だと、無限な数字が”もっと”見つかるのです。何となくならわかりそうな話です・・・?(厳密に言えば、このロジックはおかしいですし、原作者自身もその点に関してはツイッターで指摘されています)
その無機質な響きの話が、ヘイゼルにとっては非常に大きな意味を持っていた。つまり、ガスとヘイゼルとが共に過ごせる時間は、無限のように思えるけれど、実年齢でいえば、彼女らの時間は、0(才)から17?(才)に限られているのに対して、平均的なアメリカ人だったらその無限が0から80であるかもしれないのです。その小さな無限を感じてヘイゼルはガスに向かって思う限りのことを話す訳です。
3)「トロッコ問題」
Fault in Our Stars Extended Cut Review
解釈はこうです。トロッコをどちらに向かわせるにしろ、誰かは犠牲になるのですが、それはガンと類似しています。どっちにしろ、誰かは死んでいくわけで、ダメージは不可避です。しかしながら、その一見無意味な人生の中でも、行動を自ら起こしていくことが重要だということです。
それは、ガスの最期の言葉にも象徴されています。
”この世界では、自分を傷つけられるかどうかを選ぶことは出来ないんだ。でも、誰が自分を傷つけられるのかは決められるんだよ・・・”
☆何故ヘイゼルはあの本にこだわる?
ここまでくれば分かるのかもしれませんが、ヘイゼルが、あそこまでヴァン・ホーテルの著作のエンディングにこだわるのかという質問に対しては、こう答えられます。結局、残された人々はどうなるのか?という問いに対する答えをヘイゼルは知りたかったのです。つまり、ヘイゼル自身がこの世界からいなくなったとき、彼女の周りが彼女の死を受け入れて、また前進できるかを彼女は知りたかったのです。それを、彼女はヴァン・ホーテンからではなく、家族から知ることになります。お母さんが、彼女を育ててきた経験を生かして福祉士になるべく勉強していることが物語の後半で明らかになります(前半に、ヘイゼルを教会に連れていって車内で暇そうにしているお母さんは、”私もやることがあるのよ”と言っていたり、本を読んでいたりしていたのはこの伏線だったのです)。
自分の人生は無意味なのか?と、自らに問い続けてきたヘイゼル。彼女は、ガスとの出会い、両親の深い愛を経験することで、決して自分の人生は無駄ではないことが分かるのです。