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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』と『キャット・パーソン』:ハリソン・フォード像の表象について

 Captain America: Brave New World (Marvel Studios) Film Review

 『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールドを見てきた。レッド・ハルクを予告編だけでなく、ポスターでも大々的に宣伝してしまうのは若干ネタバレ気味ではないかとか、アメリカの艦隊にミサイルまで発射するやたらアグレッシブな日本の描写はどうも変だとか、政治サスペンスとしてあまり上手く機能していないんじゃないかとか、言いたいことはまだ他にある。あまりそういった点に注目してもこの記事に目新しさはないと思うので、一旦別の映画の話を迂回してハリソン・フォードについて少しだけ語りたい。 
A woman looks up at a taller man.
 『キャット・パーソン』という心理スリラー映画が2023年に全米で公開された。監督は傑作青春コメディ映画『ブックスマート』(2020年)の脚本家スザンナ・フォーゲルで、主演は『コーダ』(2022年)などでおなじみのエミリア・ジョーンズである。原作はニューヨーカーの短編小説で、そのリアルな人物描写についてはネットで様々な反応があった。その話題を大いに呼んだ原作の短編を約2時間の長編に翻案する際、非常に多くな改変が成された。特に終盤の展開については、原作を読んでいるかどうかは別として、かなり物議を醸す選択がなされている。正直なところ、この映画の脚本に原作に対する反発も入れ込んだ結果、テーマの一貫性が若干揺らいでしまい、本作がかなり歪なものとして仕上がっているところは否めないのだが、それはそれで個人的には嫌いになれないカルト映画として仕上がっていると思う。
 

 その『キャット・パーソン』では、昔のハリソン・フォードが話題に上る。しかも、その会話内容から人となりが分かってしまうという作りになっている。大学生2年生の主人公マーゴットが年上の男性ロバートと出会い、ロマンス(なるもの)が芽生え始めるのだが、ロバートは『帝国の逆襲』を何度も映画館で鑑賞して「男らしい」ハリソン・フォードに憧れている映画オタクなのである。今の我々からすれば、『帝国の逆襲』でも『ブレードランナーでもヒロインに同意もなくキスしてしまうフォードの振る舞いを擁護するのは時代錯誤的だろうし、この一昔前のハリソン・フォード像は本編の中でも主人公の親友によってはっきりと批判されている。

 自分はこの場面を見ていたので、『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』という映画が、二代目キャプテン・アメリカの映画というよりも、元将軍の"サンダーボルト"・ロスを演じるハリソン・フォード(故ウィリアム・ハートの跡を継いでいる)が自分の「有害性」と向き合う話のように思えて仕方なかった。大統領役は経験済であるハリソン・フォードがロス大統領を演じることで、彼の物語を大々的に取り上げるようになったのは想像に難くない。CMの時点でフォードことロスがレッド・ハルクとなって大暴れすること(何の捻りもなく本当にラスボスだったのには驚いたが...)は分かっていたので、ロスはどこかで心を乱すことは読めていた。したがって、前述のようなヒロインとキスするような場面は当然ないものの、老いた大統領として彼は娘エリザベスと和解したくとも本人と向き合うことを避け続けるし、後ろめたいことは話せず、それが外交上の悪手につながる。

 そういった彼の言動にどこか『キャット・パーソン』で登場するフォード像と相通ずるものを感じた。要するに交渉ができるサムとは異なり、本作におけるロス=フォードとは、使うべきところで自分の言葉を使えず、それゆえ間違ったところで間違った強気な行動に出てしまう不器用な男なのである。そして彼は簡単に黒幕の言葉により煽動され、怒りを統御できずに巨大な赤鬼として大暴れしてしまうのだから、これを一種のメタファーだとするなら、これほど分かりやすいものはないだろう。

 もちろん、説話的な都合としてエリザベスがもっと早い段階で出てきていればおそらく話はさっさと収束していただろうし、サムvsロスの最終バトルも、もっとエリザベスの話を早い段階で切り出せていればあれほどの被害はなかったかもしれない。しかし、それはこの映画の限界であると言わざるをえないだろう。何はともあれロスは最終的に自分が作った刑務所に自ら入ることを選ぶ。それは自らの「有害性」ときちんと向き合えるようになったことを意味することに加え、ハルクになってしまうという危険は単なる「根性論」だけで回避できないし、常に自分の中に魔物が巣くうことを認識しているという意味もあるのだろう。