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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

2024年の10本

 

2024年は旧作を含めた84本の映画を劇場で鑑賞することができた。その中から選んだ10本を鑑賞順に列挙したのが以上のものである。

 

(A) 三宅唱『夜明けのすべて』(日本)

(B) ソ・ウニョン『同感 時が交差する初恋』(韓国) 

(C) ジョージ・ミラー『マッドマックス フュリオサ』(アメリカ)

(D) ルカ・グァダニーノ『チャレンジャーズ』(アメリカ) 

(E) グレッグ・バーランティ『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』(アメリカ)

(F) レイチェル・ランバート『時々、私は考える』(アメリカ)

(G) デビッド・リーチ『フォールガイ』(アメリカ)

(H) ニダ・マンズール『ポライト・ソサエティ』(イギリス)

(I)  山中瑶子『ナミビアの砂漠』(日本)

(J)  ファイト・ヘルマー『ゴンドラ』(ドイツ・ジョージア

 

 順位こそつけていないが、自分は(A)なくして2024年の映画を語れない。ウェルメイドな映画とはまさしくこういった映画を指すのだろうし、決して甘ったるい話に帰着させずに、作中の人物及び観客の双方にも誠実な映画であった。静かな心の昂りを自覚しつつも、自分は各々のショットの素晴らしさにも心打たれた。それに加え、細部に注目して分析できるだけの強度が本作にはある。
 個人的には、本人の知らない病状について教えを乞う主役の一人に、 医師がひとまず三冊(1冊や2冊でも、数え切れぬほどの冊数でもなく、三冊)の本を彼に渡すところがとりわけ素晴らしいと思った。自分で本を正確に三冊読んでようやく初めてその事象についてぼんやり見えてくるものだってあるはずなのだ。そしてその彼の自学があったからこそ、主人公二人の相互理解が理論や知識のレベルだけでなく、感情のレベルでも深まっていく(ような読みは一つとしてあるのではないか)。
 (B)はリメイク映画らしいのだが、元の映画は未見。結構オリジナル版とは変えてあるのだろうとは推測できる。文字通り時を隔てた男女のそれぞれを捉えた「対話」の撮り方にはバリエーションがあって、たしかに二人が一対になっている感覚が伝わるようになっている。形式上はロマコメなのだろうが、物理的に会えるはずのない友人二人がいかにして巡り合えるのかが本筋なのであって、それぞれのロマンスが成就するかどうかは二の次でしかない。
 もちろん作中の人間関係はあくまでも作られたものであって、そこにタイムトラベルというさらに実現不可能な要素が加わって、二重の虚構性が当然ながら映画には宿る。そして演者同士は同じスタジオにいるはずである。しかしながら、それでもあの二人はもう会えないのか?とすごく歯がゆい気持ちにさせられている時点で完全にこちらは映画に騙されていて、端的に言えばこちらの完敗である。あと、本題から逸れるが、本作鑑賞後『ブルドーザー少女』を配信で見たのだが、キム・ヘユンが本作とは対照的な役を演じていて驚いてしまった。またもや当たり前なことを言ってしまうが、やはり別人になれるのはすごい。落差の問題でいうと、本作の監督ソ・ウニョンの第一作長編『告白』(2020年)が本作の甘く切ない感じとはほぼ無縁のスリラーである。こちらも大変面白いのだが、長編を撮る度にジャンルを変える監督なのだろうか、次回作が待ち遠しい。
 (C)は今回挙げた10本の中では唯一のシリーズもので、言わずと知れた「マッドマックス・シリーズ」のスピンオフ作品である。表層的に言えばこのシリーズは自動車が爆走を続け大がかりなカーアクションを次から次へと見せてくれる作品群で、小難しいプロットなどそこには存在しないよう(タンクローリーで、行って、帰る!)に思えるが、その無駄な肉を極限まで削いでなお残る物語を掘り下げていくと、いくらでも語るべきことが見つかる、という不思議なシリーズだと思っている。とある果実の実から始まり、それが宿る木で終わるという神話的構造を持つ本作もその例に漏れない。
 特に中盤のThe Stowawayシークエンスは、『怒りのデス・ロード』の前半における壮絶な追跡ほどの求心力はないかもしれないが、またミラー監督は自作のアクションにおける表現を広げたと言える。あまりにも多くのことがあまりにも言葉を欠いたまま画で語られており、未だにあのシークエンスについて自分はしかるべき言葉を見つけられずにいる。ただ、難解なことを何も考えずとも自分の魂が震えるのだけは確かに感じられるのが本作の良いところである。
 (D)を監督したルカ・グァダニーノの映画作品に関してそこまで確固たる意見を自分は持っていない。少なくとも2010年代後半から、彼のやることなすことが毎度違うのでどう思えばいいのか今一つ分からないのだ。『君の名前で僕を呼んで』(2017年)は、主人公の父による最後の話が印象的で、マイケル・スタールバーグが脇役で出ている映画はできる限り見るぞ、と徐々に思うようになったことくらいは覚えている。その次の『サスペリア』(2018年)は映画館で見ることができたのだが、そこまで波長が合う映画ではなかった。しかし、ゼンデイヤ、そして(再び)シャラメと組んだ『ボーンズ アンド オール』(2022年)はとてもよかった。その映画を見た(今は閉館してしまった)京都みなみ会館の記憶とともに、今でもその鑑賞体験を思い出すことができる。『サスペリア』で描いていたアート寄りのグロテスク描写が、このときは、マーク・ライアンスの、えも言われぬ不気味さと合わさって、(吸血鬼の)恋人たちの逃避行を効果的に彩っていた。
 その前作からあまり間を空けずに再びゼンデイヤ*1と組んだ『チャレンジャーズ』(2023年)は、これまた上に挙げた三作とは異なる種類の映画だった。
 結論から言うと、この映画は英語圏のネット言説と相まって自分の中で強烈な印象を残す映画だった。褒めるとか褒めないとか、そういった次元とはまた異なる話で、とにかくこの映画の唯一無二性について話したくなるような映画だった。自分が強調したいのは、三角関係とテニスとが不可分的なものとして描かれるところではない。男二人と女一人という設定自体は全く真新しいものではないし、その関係性の舵を取るのがゼンデイヤ演じる主人公で、彼女が新しいファム・ファタール像の形成に成功しているところでも、その三角関係がクイアなものとして描かれているところでもない(もちろんそれらの要素が描かれていて、純粋に演者みながおそらく撮影を楽しんでいるであろうことが作品にとってプラスになっていることは間違いない)。   
 例えばこの映画が変わっているのは、ライバルであり親友でもあった二人の最終マッチを中心に展開するという意味で、構造的にはほとんど『THE FIRST SLAM DUNK』(2022)と同じである点である。スポーツ映画でクライマックスというべき、肝心な試合の経過を、フラッシュバックを多用しつつ見せてくれるのであれば、それはそれは映画全編を見入ってしまわざるをえないではないか。
 また、そのゲーム自体はトリッキーな撮影手法によりカメラに収められており、気づけば放たれるテニスボールの「主観ショット」や、選手二人を「コートの下」から見上げるようなショットなどでこちらを困惑させも魅了させる。
 もちろん、フラッシュバックの構造がやや複雑であることや、若干冗長に感じてしまう箇所があるのは否めない。しかしながら、そのいびつさも含めてこの映画を独特な映画たらしめている、といって擁護してしまいそうになる魔力が本作にはあるのではないか。そして硬質でバキバキな、リピート必須のテクノ音楽が本編を大いに盛り上げていて、その音楽が盛り上げた先の、意外や意外なエンディングが論理的な結末をこそもたらしてはくれないものの、それでもどこか納得は行ってしまう。結局のところ三者は一点に収斂していくのである。
 (E)のポスターを見たときに、背筋が凍る、ほどとまではいかなくともひんやりした記憶がある。これは月面着陸が政府によるでっち上げとするアポロ11号陰謀論についての話なのか、なのに嬉々としてスカーレット・ヨハンソンチャニング・テイタムが主演しているのか、これは一体どういうことなのか?今さらなんでアポロ計画?となどと色々思ったが、ふたを開けてみるとなかなかの豊作で、ヨハンソンとテイタムとの相性も良く、しかしその(二人はスターなのでそうは見えないのだが一応のところ)中年二人のロマンスにちゃんと負けないぐらい二人の仕事っぷりが素晴らしく、特殊な職業だからこそ垣間見える人生の一面がそこにあった。執拗に出てくる猫の最後のさばき方もなかなかよく、作品がAppleTVでしか見られなくなる前に劇場で一見できてよかった一本である。
 二時間超えの映画を既に何本も挙げておいてこんなことを言うのも矛盾極まりないのだが、映画は短いに越したことはない。大体の映画は90分から100分の間に収まってほしい、もっと短ければもっと良い、と普段から考えているので(この点に関しては(J)で戻ってくる)、(F)のような作品がもっと映画館で観たい、と思う。ただ、本作に派手なところはない。画面の色味やオフィスの情景は基本的にすべて地味だ(しかし窓から港を望む素晴らしいロケーションであることも事実)。主人公の衣服からして意図的に地味である。彼女は波風立てることなく人生を送りたい、ないし終えたい人物なのである。
 内気な主人公が、職場で新しい恋に目覚めるが、やはりどうしても彼女には越えられない壁があって --- といった要約もできなくはないが、恋愛がそこまで大事なのかと言われるとそうでもない気がする。
 主人公は死について空想するが、それは必ずしも希死念慮と常に直結するものとしては語られないし、自分について話すにもそんな話は退屈だからなどと言い訳するが、かと言って自分の人生に退屈しているとも言い難いところがある。何せ観客からすれば単調極まりないような仕事を、自分は得意で好きだとまで言っている。しかし彼女が正直に何でも話すタイプの人間でないことは随所から感じ取れる。
 おそらくプロットの起伏という側面からすれば本作が最もそれに乏しい作品であることは間違いないだろう。だが、主人公たちの中では静かだが確かな変化が訪れていて、心に強く残る映画だった。
 (G)も(E)と同様、中年白人二人のロマンスが一応のところ中心にある。そして今回、主人公は様々な危機を乗り越えて彼女の愛をどうしても勝ち取りたい、だが自分の感情をうまく伝えることができず、二人はすれ違ってしまう・・・ よく考えてみればライアン・ゴズリングは前作の『バービー』でも似たようなことをしていた(しかし『バービー』では彼は反動で「闇落ち」してインセル的なヴィランと化すのだが)。 
 グアダニーノ作品におけるような高次な悩みではないにせよ、デヴィッド・リーチ監督作にも若干悩ましいところがある。リーチ監督の『アトミック・ブロンド』の階段から始まる長回しシーンは本当にすごくて、何度も見返しているしあの映画は大好きな映画である。しかし、話は結構とっ散らかっていて、必要以上に時制をいじっていた感がある。前作の『ブレット・トレイン』では、意図的なトンチキ日本描写が立て続けに出てくるのはまあ良いとして、こっちもどこか話が混線していてそれでいてアクションがとにかく閉所的で新幹線という舞台は特別生かされているようなものでもなかった*2。あくまでも独善的で個人的な見解だが、アクションが機能していても、あまり話の筋がしっかりはしていない監督なのである。
 (G)も別段ラブコメや、他の陰謀めいたプロットがかっちりとしかるべき場に収まっているわけではない。ただし、またしても(E)と同様、今回はエミリー・ブラントとゴズリングがラブコメ然とした楽しい演技を見せていて、二人の腕に映画が救われている点は否めない。あと脇役もなぜかちゃんと実戦ができる強者ばかりが揃っているおかげで本作は充実している。そして、メタなジョークに若干頼りすぎるところはありつつも、必ずしも自己陶酔的ではない映画愛、そしてスタントへのリスペクトに終始貫かれている作品である*3

 (H)のニダ・マンズール監督については、自身が手掛けた傑作コメディドラマ『絶叫パンクス レディパーツ!』(のシーズン1)を以前から見ていた。このドラマは南アジアにルーツを持つ若いムスリム女性たちがパンクバンドを結成するというコメディで、大変楽しく笑えるヒット作だった。その流れからすると、この映画の初報を目にしたときは、スタント・パーソンを目指す高校生のカンフー映画?とこれまた嬉しい驚きだった。こちらも要するに男性の領域に閉じ込められがちだったジャンルをイギリスから開拓した快作で、サスペンスや学園コメディの要素を混ぜ込んだ爽快なカンフー・アクション映画である。自宅で主人公が姉と本気で殴り合いの喧嘩になり、壁は破壊され、主人公は投げ飛ばされるシーンは無茶苦茶でハチャメチャなのだが、両親にとってはさして珍しくないことのようでさらに可笑しかった。
 『Perfect Days』が描く「東京(≒日本)」と(I)の描く東京は極めて対照的で、小汚くてやかましくて狭苦しくて明るい未来を夢想する選択肢を与えてくれないメガロポリスのイメージが随所に現れる。これぞ2020年代東京物語であった。
 元彼が作り、今の彼氏と食べる冷凍のハンバーグ。二人にはちゃんと料理を作る気力も能力もないのか、つけあわせのおかずやライスやパンも何もなく、ただハンバーグに中濃ソースをかけて食べる。こちらの思い込みかもしれないが、日本映画で食事の場面があるとき、大抵の場合一観客として「おいしそうだな」とか思うのだが、この映画ではそういった感情が全く湧かなかった。誰も食べることに純粋な喜びを見出していないし、そこまで気の回らない、もしくはそこまで余裕のない人がほとんどな世界なのだ。
 この映画に「現代の若者の生きざま」を見出そうとするのは分かるが、どこまでリアリティがあるかで見るのが一番誠実な見方なのかは分からない。けれども、主人公がきちんと自分のメンタルヘルスに向き合おうとしている態度そのものを全く茶化していないところには時代性を感じた。医療の重要性は前提としつつ、医療の介入それだけで解決が安易に導かれるともしていないそのバランス感覚は、(A)と相通ずるものがある。
 あとなぜか終盤になると急に中島歩(『偶然と想像』)、渋谷采郁(『ハッピーアワー』『悪は存在しない』)、唐田えりか(『寝ても覚めても』)という濱口竜介映画でそれぞれ独特の存在感を発揮していた俳優陣が立て続けに登場して、パラレルワールドの濱口映画らしくなるところも個人的に面白く見た(が濱口監督はこのような映画を決して撮らないし撮れない)。
 そういう意味でも今年、自分にとっての日本映画を代表する3本は『悪は存在しない』*4と(A)と(I)である。

 そして最後が(J)だ。こちらはセリフが一切ない、ジョージアの古いロープウェイを舞台とした映画だ。85分しかないのだが、適切な長さである。サイレント映画的な、動きだけで見せる滑稽さだけでなく、その二台のロープウェイが運転時にその都度一瞬だけすれ違うという要素をうまく物語に組み込んでいる。そして、乗り物と戯画的な小悪人、とくれば映画が終わるまでにはああしてくれないと困る、と思っていたところをちゃんと押さえていたのも好感が持てた。
 次点は(鑑賞順に)『ダム・マネー』『パストライブス』『ブルックリンでオペラを』『悪は存在しない』『コール・ジェーン』『ラブ・リセット』『スクラッパー』『ロイヤルホテル』『ヒットマン』『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』(ドラマ版を入れて一つの作品と見なすならば今年一だった)『クラウド』『パリのちいさなオーケストラ』『トランスフォーマー/ONE』『ロボット・ドリームズ』。

 

*1:シャラメの主演作は割と見ているが、彼にはぜひまたジュリア・ハート監督の単発企画にもう一回出てもらいたい・・・

*2:なので一番面白かったのはフラッシュバックで少しだけ出てくるコンテナ場での戦い

*3:しかし、同年公開のとあるスーパーヒーロー映画におけるマッドマックス・パロディと比べると、本作におけるデューン・パロディはパロディとしてある程度機能していたように思えてしまう心境の違いは何なんだろう

*4:リストにこそ入ってはいないが、これも大変良かった。濱口映画についてはキャラクター造形云々とかよりは、映画の尺の使い方が近年毎回異なっていることの面白さや、一癖も二癖もある人たち同士が、感情的に思えるが実は結構理屈っぽい話を延々としていくうちに、やがてその場が妙な熱を帯びていく「討議映画」としての面白さについて語りたくなる