ジャン・リュック・ゴダールの新作『イメージの本』が日本で一般上映される日もそう遠くはないはず、なのだがいまいちどういう映画なのか分かっていなかった。そこで、たまたま自分がぶつかった情報を軽くまとめてみた。
まず始点は蓮實重彦。以下のツイートは、今年1月にあったトークショー(本人監修の「ハリウッド映画史講義特集」における『拳銃魔』(1950年、傑作!)上映会にて)でのもの。
蓮實重彦、今日の話の"枕"。この後うまく話せるかどうかわからない興奮の原因は、三が日朝から晩までゴダールの新作『イメージの本』を見たこと。何度見ても書物を参照してもわからないところはわからない、しかし、見たことを言いふらしたくなる興奮。 https://t.co/0NgPhR0jue pic.twitter.com/cnQe1bW3Ck
— sansdieu (@sansdieu01) January 5, 2019
夢中で年明け早々ゴダールを見まくる蓮實氏。
そして次は早稲田大学教授藤井仁子のツイッターならぬブログ上の一連の投稿。
(完全に余談だが、ちゃんと「つぶやき」ではなく「さえずり」と表現しているこのブログ投稿が本来の意味でのtweetということになる)
「革命の日の朝の屑拾い日記」02022019
さえずり 02022019「それでもまだ物語ることはできる」でずっときたゴダールがそれをやめたということか。芯となる人物も消えたことにまずはシンプルに驚くべきだろう。ゴダールは(彼なりの)創作のきっかけがわりと見えやすい人だが今度はよくわからぬ。いやむしろアラブと明言されているのがまるで信じられないのだ。
さえずり 02022019bis演技された老人の嗄れ声による遺言ごっこは相変わらずだが90近い爺さんにやられるとごっこなのかマジなのかが判別できないというのは実は重要なポイントだと思う。全篇が偉い人の真顔の自虐で笑っていいのかわからず困る感じ。昨年の騒動にからめていえば贋作といわれたほうがいろいろスッキリする。
さえずり 02042019
対位法の話をしながら流れるのはメンコン。むろんメンデルスゾーンがいなければバッハが再発見されることもなかったという途中の理屈が平気で省略されるがゆえの相変わらずの喰えなさではある。だがこのように簡単に解説できてしまうところにこそ引っかかるのだ。やはり衝撃力は目に見えて落ちている。
さえずり 02042019bis
というかそのような衝撃力などはなから目指していない感じがこれまでと違いすぎる。どうも本気で自分の映画にアラビア語を響かせたいわけでしょう。意味はわからなくてもこの響きを聴けと。『映画史』のあのどこまで本気かわからないイタリア語讃歌とは全然違う。今さら西欧中心主義を反省? まさか!
さえずり 02052019
いちばん似ているのは『オリヴァー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』といえばさすがに怒られるか。その自作引用の仕方にも引っかかる。このときこの場面を撮ったのはこういうねらいでしたと作者本人に解説される感じが否めないのだ。めずらしく英語圏で絶賛の嵐というのがなんかわかっちゃう。
さえずり 02052019bis
英語圏だとこういうのはエッセー映画であっさり通じるし現にそう評されている。よかったですねえアニエスさん、ジャン=リュックがちょっとあなたに近づきましたよ。真面目な話、少し前までのゴダールならアラブに映画は存在しないと平然といいはなったはず。それが今回は何? 変わったってことなの?
最後はジャズミュージシャン/評論家の菊地成孔が今年2月8日のネット配信サイトDommuneでの番組でしゃべっていた内容を振りかえってみると、どうやら今回の作品はゴダールが今まで撮った映画の切り貼りのようなものに、本人のナレーションをかぶせたものらしい。しかも、スクリーンサイズが本編中に変わっていく。そして、試写一号で観ていた人たちの大勢はどこかのタイミングで寝ていたらしい(笑)