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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『アバター』~強い女性にあこがれ続ける監督だが、その本質は?

 

 今回取り上げる映画『アバター』は、その記録的な興行収入や、CGI論争(登場人物のほとんどがCGならば、役者は要らないのではないか、という議論)が注目の中心であった印象があるが、今回は、監督・脚本を努めたジェームス・キャメロンの作家性に着目したいと考える。

 

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 ジェームス・キャメロン監督は、本作を含む『タイタニック』『ターミネーター』シリーズなどで知られ、複数のブロックバスターで成功を収めているが、映画評論家の町山智浩氏によると、彼の手がける作品には、ほとんどいつも「強い女性」が登場してくるのだ。これは、どうも彼自身の妻たちが、どちらかというとマニッシュでたくましいイメージのある女性が多いということからも分かる。つまり、彼の理想とする女性像が彼の創造する映画に正直に反映されていると言えよう。

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 例えば、『ターミネーター2』のヒロイン、サラ・コナーも、前作『ターミネーター』のヒロインと同じなのだが、容貌がかなり変わっていて、銃片手に、サングラスをかけ、タンクトップを着た、「強い女性」となっている(『ハート・ロッカー』でアカデミー賞を受賞した元妻キャサリン・ビゴローのファッションとかなり近い)。実際、ストーリー上でも、彼女はまだ幼い息子を味方のターミネーターと共に必死に守っている。

Terminator 2 - Judgment Day: Original Motion Picture Soundtrack

 また、別例の『タイタニック』でも、悲劇のカップルの内、生き残ったのは女性側だ。加えて、タイタニック号沈没事件を回想する「今の」本人は91歳の設定になっており、かなりのバイタリティの持ち主であるのが分かる。その一方でまだイノセントでナイーブな印象のディカプリオ演じる男性の方は、「たくましさ」に欠けていたとも言えよう。

 

 このような視点から考えると、『アバター』も「強い女性」が非常に多い映画だ。アバター計画の指導者であるDr. Graceも、他人の意見には簡単に折れることのないような女性である。この役を演じたシガニー・ウィーバーは、キャメロン監督の『エイリアン2』でのヒロインであり、男性の性的暴力性を象徴すると論じられてきたエイリアンに立ち向かうきわめて、キャメロンのマッチョイズム的な「強い女性像」の典型例であることも念頭に置きたい。クライマックスの人間vsナヴィ族の戦争において、主人公のSully側につく、Trudy(男性的な響きの名前である印象がある)にも、非常に男勝りな要素が見られる。また、先述したサラ・コナーの服装ともかなり類似している。

 しかしながら、上記の二名は、ナヴィ族の勝利を目にすることなく命を落とす。キャメロンの描く真の「強い女性」は、最後まで生き残る。したがって、この映画で一名だけ「強い女性」を挙げるとするならば、ヒロインのNeytiriであろう。彼女は勇敢に戦う戦士であり(ナヴィ族の女性はかなりアマゾネス的なオーラを持っている)、最終戦で彼女は文字通りJakeの命を救う。ストーリー上の便宜ということもあろうが、Neytiriは、非常にたくましい女性として描かれている。

 こうして考察を続けると、ジェームス・キャメロンの映画の世界では、女性が優位なように思えるが、そこまで単純化されている訳ではないことを主張したい。フェミニズム批評の観点からすれば、以下のことが挙げられる。

 まず、言語に関してだ。言語は、ラカンが論じるように、非常にロジカルなものとして男性と結びつくものとして見られることが少なくない。Neytiriは、Dr.Graceの学校で教育を受けてきたので、英語に堪能である。これは、植民地の言語政策と同様のことであって、支配者側の言語を被支配者側に押し付けるということである。これをジェンダー的に捉えると、言語=支配する「男」が、言語を教えられる側=支配される「女」という構図が見出せる。Sullyは結果ナヴィ族の一員となる(物理的に人間の身体を捨てる)。

 ただ、最後まで彼は英語を話したままだ。支配者側のロゴスを使ってるままなのだ。さらに、やはりリーダーと君臨するのはSullyだ(聖なる樹に任命されたのだから当然かもしれないが)。Neytiriに命を救われるのは事実だが、それは成り行きであって、自ら欲している訳ではあくまでもない。まとめると、Sullyのような、この映画の男たちは、「強い女性」に一種の憧れや、魅力を感じてはいるが、だからといって彼女たちに劣りたくはないという意識を根底に持っているのではないか。マッチョイズムへの願望(「マッチョ」な女性に憧れ、また自分もそうなりたいので、劣る訳にもいかない)が、一見矛盾した感情を抱かせていると言える。

参考:町山智浩ブレードランナーの新世紀』