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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

RADWIMPSの"HINOMARU"騒動でモヤモヤしている人にすすめる必聴番組(荻上チキ・Session-22 6月13日)

久しぶりの更新です。また映画の話とは違う話になりますが、最近RADWIMPSの新曲"HINOMARU"で一騒動あったところに、TBSラジオの「荻上チキ・Session-22」が特集を組んでいました。この番組はここ数年愛聴している番組で、本当に傑作回は多いのですが、今回もとりわけ勉強になりました。首都圏内の方はRadikoのタイムフリーを使って、番組中流していた曲と一緒に本放送が聞けます。Radikoプレミアム会員でしたら全国どこでも聞けます。僕はプレミアムで後から聞きました。

曲がかからないバージョンはラジオクラウドで聞けます。ただ、これは曲と一緒に聞くことをお勧めします。

愛国ソングだから良い悪い、は別として「無思想」の曲なんてどこにも存在しませんよ。

 

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4月日記 本とかテレビとかラジオとか(アフター6、シャキーン!等)

 

4月X日

TBSラジオの土曜の番組ウィークエンドシャッフルが終わり、翌週からお昼のアフター6ジャンクションが始まった。月曜日から金曜日まで毎日3時間って長すぎて聞く気なくなるかなと思ってたら、さくさく聞ける。全然以前の番組と比べても、面白いまま。

4月X日

 関ジャムで邦楽と洋楽を比べる特集をやっていたので、録画していたものを見た。

 日本はメロディー重視、欧米はリズム重視(ちょっとアメリカと西洋諸国がまぜこぜになってる感は否めないな)とか、邦楽は歌詞がやたら詩的な一方で、洋楽は割とストレートなこと歌ってるだけ、とか。簡単に一般化出来ないところはもちろんあるけど、仮説としてちょっと面白いなとは思った。

4月X日

 ちょくちょく買っては読み進めていた沢木耕太郎旅行記深夜特急』を全て読み終えた。うわー日本を出て、とうとうロンドンについてしまったよ、沢木耕太郎。読書も一種の旅なので、この旅もひとまず終了。

4月X日

『日本のフェミニズム』と『OLたちの<レジスタンス>』の二冊を二日で読んだ。

 前者は、近現代の日本における女性たちの闘争=社会運動の歴史が端的にまとまっている単行本で、後者は20年前のOLたち(この表現がそもそも古くなっていることからも明らかですが)が、男性中心的なオフィス・スペースにおいて、ささやかな「抵抗運動」を行っているか、ということについて取り上げた新書。どちらも勉強になったし、興味深く読んだ。けれども、後者ではこの「抵抗運動」がかえって現状維持に貢献してしまっている皮肉な状況を強調していて、厳しい内容になっている。

 このブログは映画のブログだけど、やっぱりジェンダーのことについて分かってないと、今のアメリカ映画をまともに批評することなんて無理だろうなとはよく思う。

4月X日

最近、朝のEテレの子供用番組、シャキーン!の録画をほぼ欠かさず夜に見ている。

個人的にめちゃくちゃシュールで面白いと思っている。多分今やってるテレビの中で一番好き。

 

「本当は怖い」グレイテスト・ショーマン(解説)

 僕がとりわけ好きな映画評論家の中に柳下毅一郎がいるのですが、彼の以下のツイートを見て僕は『グレイテスト・ショーマン』は是非見ておこうと思いました。


 柳下氏の言うところの「アクロバチックぶり」とはいったい何なのでしょうか?その質問に応えるような形で今回の議論を進めていこうと思います。

 この作品の一番の改変的要素は、上の引用にあるように、フリークショー(作中でサーカスと称されるショー)が持つそもそもの問題がずらされてしまっていることでしょう。本作ではフリークと呼ばれるパフォーマーたちが、下品だとか醜いだとかいう理由で、経済的に比較的裕福な人(中間層と上流階級の人間)たちにより忌避されるということ、つまり彼らが社会に受け入れられていないことが問題視されています。

 ただ、実際の歴史的文脈において問題視すべきことは、彼らのことを面白がって消費することなのです。パファーマーたちが受け入れられていないというより、むしろ彼らが商売として成立するほど好奇の目で見られていたことを考えるべきなのに、この映画は最終的にPTバーナムを、雇われた側が励まして、一種の世代交代を果して終わってしまう。恐らく批判として想定できる点を無視して突っ走しているので、ちゃんと諸問題は解決しているかのように思える構成になっているのです。もちろん史実を基にした全ての映画作品が、貫徹して事実に忠実である必要はそんなに個人的に思っています。ただ、自分が見ているものはあくまでもフィクションなのだという、前提は自分の中で持っておかないと、作り手の思うがままにイメージを操られてしまうことにもなりかねません。以上、この作品を観る上で考えておきたい点だと思ったので、簡潔ながら少しばかり言及しました。

 でも、「フリークショーを観る観客」を映画という形で観るのは、我々に他なりません。そこもまた考えどころですね。
 そういえば、上のツイートで「アクロバティック」という表現が使われているのは、サーカスとかけてんの...?

garth.cocolog-nifty.com

荻上チキ Session-22 今年の個人セレクション20本

今年も残りわずかとなりましたが、映画の個人ベストランキングは横に置いておいて、今年もたくさん聞いたTBSラジオの情報番組『荻上チキ Session-22』から、個人的にとても勉強になった20本をリストアップします。皆さん、よいお年を!楽しい映画観ましょう、ラジオも聞きましょう!

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ブレードランナー2049は回し蹴り映画だ(ネタバレゼロレビュー)

 
 『ブレードランナー 2049』を観てきた。あえて本編の本筋に触れず、この映画について語りたいと思ったら、回し蹴りの話をするのが個人的に一番だ。
 
 自分が観た劇場では、少しだけ笑う人が少しだけ聞こえたような気(あんまりジョークはないけど)はしたが、回し蹴りが炸裂して小さな声で"whoo!”と言ってしまったのは、自分だけだった(結構恥ずかしかった)。
 
 様々な登場人物がいる中で、回し蹴りの使い手は一人だけ。派手なアクションこそないこの映画だが、男たちはとにかく泥臭く拳で戦う。殴りあう姿に美麗な要素はもちろんない。手は無論相手の血で汚れる。しかしながら、(恐らく本編で二回?)炸裂する回し蹴りは、自らの手を汚さず、それでいて相手に大ダメージを与える。ノックアウト級なのはいいが、ここは映画の世界、反復があるとほぼ必ず差異が生じる。二回目の回し蹴りはどうなる?というか、そもそも誰が蹴って誰が蹴られるのか?回し蹴り映画、ブレラン2049をぜひどうぞ。

【ホラーコメディの傑作】タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら【トランプ政権の今、観たい一本】 

 拾い物、とはこのことだ、と言いたくなるような映画だった。

 ホラー映画の安直な筋書きや過剰な暴力には多少食傷気味の映画ファンもいるかもしれない。そんなときには、そういった「お決まり」を転覆させるような、自覚的なホラー(メタ・ホラー=ホラーについてのホラー映画)を観るのは一つの手だと思う。

 今回紹介したいのは、『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』(2010年)という、かなり微妙な副題がついている映画だ。原題は、"Tucker & Dale vs. Evil(悪)"というおふざけ加減が丁度いいタイトルだ。

 この映画の見どころは、スプラッターホラー&コメディという絶妙なジャンルの組み合わせが成立していることと、今までの(ホラー)映画に潜む偏見を暴き出していることだ。

 主人公は、いわゆるヒルビリー、プア・ホワイト(貧乏白人)とされるタッカーとデイルの二人で、彼らは地道に貯めてきたお金で買ったぼろぼろの別荘に、初めて足を踏み入れる。しかし、その近くで、夏休みを過ごしている大学生のグループに、ある事故をきっかけに勘違いされ、とんでもない展開を迎える。(乱暴にまとめると、要するにアンジャッシュのコント的な映画なのです)

 この映画が黒い(そして血まみれの)笑いとともに提示するのは、南部のブルーカラーの白人たちに対する偏見だ。たしかに、例えば『悪魔のいけにえ』を思い起こしてみれば分かるが、ホラー映画において南部のプア・ホワイトたちの扱いは割と一面的で、理由もなく殺人を繰り返す連中として描かれがちだ。反証はいくらでも出来るだろうが、そういったステレオタイプが数々の映画によって形成されてきたことは事実だ。

 その一種の偏見があるからこそ、大学生たちが彼らを殺人鬼だと思い込み、一斉に正当防衛の名において、彼らを殺しにかかる。

 (まあ、しかしながら全員アホな大学生たちなので、タッカーとデイルが何もしなくとも死体の山が築かれていく訳です)

 もう少し真剣な話に戻るが、ドナルド・トランプが大統領になった直後から、リベラル側が、裕福でない白人労働者のことをあまりにも軽視していたことを猛省し始めたが、この映画を観れば、紋切型で人を判断するのはお互いにとって好ましくない、というごく当たり前のことに改めて気が付かされる。そういう意味でも一度ご覧あれ。

 

タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら [DVD]

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ポッドキャスト放送後記 ラ・ラ・ランド

 今回の投稿はポッドキャスト版の『アメリカンに映画を観る!』を一か月ほど前に更新していたので、そのお知らせと放送後記なるものです。

 

(新)アメリカンに映画を観る!

(新)アメリカンに映画を観る!

  • YK Project
  • テレビ番組/映画
  • ¥0

 

 今回は大ヒット中のミュージカル映画ラ・ラ・ランド』の「光と闇」について話しました。「光」の面については、良質な楽曲や、オープニングの長回しシーンなど、見どころがたくさんあるエンターテイメントとして、誰にでも薦められるような作品となっていると思います。同監督の『セッション』(2015)は、ジャズ×スポ根的映画であったため、大変な傑作だと個人的には思う一方、誰にでも薦められるような作品ではなかったのと対照的です。

 しかしその一方で、後半、いささか大げさに「闇」と題して本作について論じたのは、やはりライアン・ゴズリング演じるセブのジャズに対する考え方、簡略に言えば彼の音楽観に違和感を感じる人が少なからずいるのかちゃんと説明しておきたかったからです。もちろん、菊池成孔氏の映画評(第一弾:http://realsound.jp/movie/2017/03/post-4278.html

、第二弾:    )にて論じられていること以上のことを私は到底指摘出来ていませんが(至極当然のことですが)、ただ文体や内容がやや難しいだと思いますし、もう少しかみ砕いて説明することも大事かなと思います。

 結局のところ、私自身が一番違和感を覚えたのが、「純粋なものとしてのジャズ」をセブが必死に守ろうとしているというところでした。そもそも、白人であるセブが、黒人音楽であるジャズ(とは言えどそんな単純な話でもありませんが)を保全しようとすること自体、どこかいびつだという議論は成り立ちうるでしょう。ですが、純粋なジャズと言ってもそれは一体何なのか、そのようなものがそもそも存在するのかという疑問は残ります。懸命に昔のスタイルのジャズを残そうとしても、それを聞いてあげようとする人間がいなくなってしまえば、元も子もない訳です。(その点に関してはむしろ、ジョン・レジェンド演じるキースの言う通りです)

 セブの愛するジャズ自体、様々な変化を経て到達した一つの点にしか過ぎない訳で、そこからまた新しいジャズが生まれ、今に至る訳ですから、変化は不可欠であると共に、また面白いものが生まれるきっかけとなっていく訳です。上手く変化と折り合いをつけることが出来ないところに、どこかセブの頑固さや、むしろジャズの首を絞めてしまっているところがあるのかもしれません。

 ちなみに、ポッドキャストの中で他の点にもツッコミを入れていますが、あくまでもそれは一種の指摘なのであって、評価自体に影響を及ぼしたかというとそれはまた別問題だと自分では捉えています。あくまでもこの映画が好きか嫌いかというのは、客観的な論考に基づくものでは必ずしもないと思っているので。