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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

ポッドキャスト第一弾 マッドマックス怒りのデス・ロード解剖~コメディ映画?フェミニズム?赤と青の意味?

Mad Max: Fury Road [Blu-ray + Digital Copy] (Bilingual)

とうとう出来ました。ソフト化を記念して、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』についてディスカッションしました。

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アメリカンに映画を観る!!

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今回は、主に『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』についてわちゃわちゃ論評しました。アクション映画として、そして傑作カルトムービーとして誉れ高いこの映画は、フェミニズムの論点からも称賛されました。そこを出発点として、様々な点から議論しました。
主なトピックス
-海外でのネットフリックス事情
-マックス=コメディアン?
-どこがフェミニスト映画なのか
-我々はモノではない・・・我々って誰?
-感動的な殴り合い
-赤と青の意味
-フェイスブックの原点は下らない

 

バック・トゥ・ザ・フューチャーを振り返る

 もう終わってるじゃないか!という声もあるだろうが、時差の関係で本国アメリカはまだ21日でした。やはり一大ブームを巻き起こした有名な映画だけあって、日本は言わずもがな、アメリカのメディアは結構ネタにしているようだ。

30年後の「未来」に着いた 「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」2015年10月21日:朝日新聞デジタル

'Back to the Future' fans to get second shot at Pepsi Perfect - Oct. 21, 2015

 どこまで映画が描いた未来に追いついたかという検証が面白い。もちろん空飛ぶ車は出来なかったし(物凄い燃料が要るし、逆に事故が多発して、車が空から降ってくるのが日常茶飯事になってた・・・かも?)、カブスは今年もワールドシリーズ優勝は無理そうだ。ジョーズの19作目はもちろん映画化されていない。極小

 だが、ホバーボードや、自動に靴紐を結ぶナイキのスニーカーはどうにか実現している(しそう)ようだ。Kinectのように、何も持たずテレビゲームを楽しむことは可能になったし、メガネに映像が映るという、グーグルグラスも商品化されたし、顔の認識機能はごく普通のことになった。スカイプで首宣告(トイレにファックスはいらないと思うが・・・)も可能になった・・・まさしく『マイレージ、マイライフ』で実行寸前まで行ったことだ。決して絵空事ではない。

 もっと興味深いのは、本作の2人の脚本家は別に未来を予言することに関しては全く興味がなかったことだ。単にいい映画が作りたいから、奇抜な設定を生み出していっただけということだろう。古着からバイオエタノールを抽出して燃料とするデロリアンのレプリカまで出来てしまったのだから、むしろこの映画によって、今僕たちの生きる”い未来”は一部形作られていったところも当然あるだろう。

 

 

キングスマン解説~幾層にも重なる教会シーンでの黒い笑い

『キックアス』『X-Menファーストジェネレーション』監督マシューヴォーンが手掛けた『キングスマン』は相変わらずのブラックユーモアまみれの、それでいて正攻法の傑作スパイ・アクション映画だと思う。

 今回は、あの教会シーンでかかっていたあの曲の意味を主に考えていこうと思う。

 あの殺陣(たて、ではなく本当にさつじんと読んだ方が適切に思えてしまうほどのシーンだったが・・・)の後ろでかかっていたのがこの曲である。

 

www.youtube.com

 洋楽ファンの方はご存知かと思うが、この曲は70年代のロックシーンにおける名曲だとされている。

 リナード・スキナードという、サザン・ロックと言われるアメリカ南部発祥の音楽で有名なバンドによるこの曲は、それゆえに南部のごりごりの教会のシーンでこの曲を流すというのはとんだブラックユーモアなのは町山智弘氏もラジオで解説している。

 ただ、この曲の背景を考えてみると、その黒い笑いはそんなところでは終わらないのだ。

 全くこの曲が知らない方が一聴してみると、驚くかもしれないが、この前半は至って感動的なバラードなのである。

 もし僕がここを離れても、僕のことをずっと覚えていてくれるだろうか

 なぜって、今もう旅立たないといけないから 

 行かなければいけないところが多すぎるんだ

 でも、君と一緒にいても

 もうそれは同じことにはならないんだよ

 なぜなら、僕は今鳥のように自由なんだ

 そしてこの鳥を変えることは出来ない

 僕は元には戻れない

 どうも恋人を置いて、どこかへ旅立ってしまう曲に思える。間違ってはいないのだが、この曲は、オールマンブラザーズバンドの二人に捧げられている。

 オールマンブラザーズバンドとは、リナード・スキナードの先輩格のバンドで、サザン・ロックの雄だ。そしてこのバンドの名物ギタリストのデュアン・オールマンは、スライドギターの名手として知られていた。しかし、その黄金期において、突然の交通事故で当バンドのベーシストとともに命を落とす。 

 そんな不運に見舞われたバンドへ敬意を表して、この曲で出てくるのは言わずもがな、スライドギターである。そして、その亡くなった二人は自由になった鳥であると、ライブのMCでリードボーカルが言ったことがあるそうだ。

 そしてこの前半部分は実はあのシーンの早い段階で教会のオルガンから鳴っていた。そこにあの強烈なギターソロの応酬が入ってきてとんでもないことになる。前半部分に胸を熱くさせ、後半部分に燃える名曲がこんな使われ方をしていたのである。

 実はこの曲にまつわる話はまだあって、奇しくも、リナードスキナードの主なメンバーも旅客機事故で数人亡くなっており、オールマンブラザーズバンドと同じような運命を辿ってしまったのだ。

 そう考えると、南部的なものを徹底的に潰していったあの映画のあのシーンのあの曲の意味はかなり重層的なものになってくる。あの黒い笑いもかなり複雑だったのだ。

 

 

マッドマックス再訪

 幸運にも、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』DVD・ブルーレイリリース記念の試写会に行ってきた。ブルーレイ上映なので、画質の点で序盤は若干気になったものの、本作に再びのめりこむのにはさして時間はかからなかった。

 当作品に関しては、来週には始めようかと思っているポッドキャストyoutubeに3本ほど挙げた解説音声とは別のもの)の第一回は、やはり『怒りのデス・ロード』を再び扱い、結局海外では具体的にどのような観点でもって論じてこられたのか、そしてそこから更なる見方は出来まいか、と緩くもしっかりと論じていきたいと思うので(一応の試論はこちら→

 

ykondo57.hatenablog.com

 

、詳細は別の機会に譲るとして、何故か鑑賞後『スパイダーマン』シリーズを思い出した。

Spider-Man: The Movie (輸入版)

というのも、マッドマックスが、女性(もちろん男性も頑張ってますが)が四の五の言わず生存のため奮闘する話だとまとめるなら、スパイダーマンはメリージェーンあるいはグウェンが自由落下しまくってキャーキャー叫んでる話だから。『アメージング・スパイダーマン2』のことを「ミソジニ―映画」だと苦言を呈した声を個人的に知っているが、それはその作品のプロット単一の問題ではないだろう。スパイダーマンフランチャイズの作品群は、抵抗することもあまり許されぬ女性がクモ男に助けてもらうという話がプロットの原動力となっていることを考えると、悲しいが不可避なのかもしれない。

 ただ、よく考えてみれば、スパイダーマン(最初のシリーズ)を作る前に、サム・ライミ監督は『ダークマン』で女性を落として、キャーキャー(厳密にはキャーだが)言わせている。もう既にその兆候は見えていたのか。

猿の惑星 新世紀から一年

 気づけば、あの『猿の惑星:新世紀』からもう一年が経つ。

 このブログで感想はまだ書いていなかったものの、かなりの傑作だった。猿対人間の抗争の構図に、人間社会における(あるいは国際社会における)避けられなかった闘いの構図を見出した人々は多くない。というか、むしろその戯画的構造について考えざるをえないような迫力のある映画になっていた。長寿ポッドキャストの、Filmspotting(米国でのポッドキャストでは上位を占める)では、この映画にシェイクスピア的なものを感じ取っていた。正直なところ、どの構図が最も適しているかはそこまで問題ではなく、むしろそれほどの普遍性を一本の映画にきちんと付与出来たことこそが重要だろう。

 ただ、個人的にそれだけでこの映画を「かなりの傑作」と呼んだかどうか、今ではわからない。しかし、『モールス』『クローバーフィールド』を手掛けた、マット・リーブス監督であるだけあって、長回しのシーンにはぐっと来た。コバが人間たちの戦車を奪って、それを乗り回すシーンでは、その迫力もさながら、醜い戦いをぐるりと360度一望出来てしまうことで、観客はその陰惨さを思い知らされることになる。また、どこに敵の猿が隠れているか分からぬ状態で、空き家を息を殺して主人公が歩く長回しにもかなりサスペンスがあって、見ごたえのあるワンシーンだった。

 このように、大まかなプロットももちろんだが、カメラワークをとっても、傑作と言って申し分のない出来の映画だったと思う。何せ、登場していたのが猿であることをすっかり忘れていたし。

 

アントマン レビュー

 ”アントマン”を観てきた。

 

 Marvel Cinematic Universeの第二弾がこれで終わりらしい。(ちなみに第一弾はアイアンマンから始まり、アベンジャーズまで)期待通りの良作で、まさに宇宙のごとく拡張することを止めないマーベルの作品群が量産されることにうんざりくるどころか感服すらしてしまう。

 当初は『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ワールズ・エンド』でもお馴染みのエドガーライトの脚本・監督の作品になる予定が、急遽変更し、コメディ畑の監督になった。しかも共同脚本のクレジットの中にいるのが、アダム・マッケイ。『俺たちニュースキャスター』などで知られるコメディ映画の監督である。

 という訳で、この映画は真剣なアクション映画というより、もっとライトなコメディ映画として観る方が楽しめる。『マイティー・ソー』とか、『キャプテン・アメリカ』よりも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のイメージに近い。

 またしても地球滅亡の危機を回避するために立ち上がるヒーローの物語ではあるが、マーベルの世界なら、アベンジャーズを呼べばそれで済むのでは?という疑問は極めて全うだと思うが、ちゃんとそれは処理した上で楽しめる一本となってはいるが、ちゃんと接点もあるのであまりこじつけだとも思わずに済む。

  この映画で一番笑えたのは、陽気なメキシコ系のこそ泥の独り芝居だ。誰だれが、誰だれに話して、それをまた誰それに~と本筋から離れ続けるこのシーンでは、彼の話す一語一句が、口パクのように他者と連動していくところが可笑しい。これはエドガーライトの脚本からだろうと思ってたら、映画秘宝のインタビューを読んでてみると、違うらしい。インタビューのニュアンスから察するに、エドガーライトのよりも、より面白おかしくなっているようだ。そういわれると余計にエドガーライト版も見てみたかったと思う次第だ。

『ナイトクローラー』とメディア

 念願の『ナイトクローラー』を観てきた。驚くべきことでもないが、随分遅い日本での上映だ。

 あらすじはジェイク・ギレンホール演じる若者ルー・ブルームが、職を求めて、ロスで犯罪現場の映像をいち早く自分で撮影することになるが、より過激な映像、視聴者の要望に応えられる映像を求めて、現実と虚像との境界をますます切り崩していくようになる、というもの。

 ジェイク・ギレンホール主演作を全て観た訳ではないのだが、彼をアメリカの闇に投げ込んでしまえば、大抵の場合いい映画が出来ると個人的に盲信している。例えば、真実を過度に追いかけるあまり、家族を失うジャーナリストを描いた『ゾディアック』や、これまた真犯人を超法規的手段でもって(つまり、疑わしき者をひたすら拷問する)見つけ出そうとする優しいパパ(ヒュー・ジャックマン)の話である『プリズナーズ』(ギレンホールは警察官)が挙げられる。

 本作もなかなか見ごたえのある映画だ。ハリウッド映画ではおなじみの「自己批判モノ」である(それについては後述する)。この映画が徹底的に解剖してみせるのは、視聴率を上げるべく、奮闘する地方のテレビニュース局だ。実際にロサンゼルスの犯罪率は低下傾向にある(と主人公が言っている)のにもかかわらず、中流白人社会で勃発する犯罪を集中的に取り上げようとするそのテレビ局の態度は、ジャーナリズムでよくいう「真実の追究」ではなく、「物語の創作」である。ただ、それが視聴率アップに繋がるのだから、彼らは必死にジグソーパズルのピースを集めてきて、ありもしないパズルを完成させようとする。

 モラルの問題には無関心の主人公ルーにとっては、願ってもない状況である。警察の無線を一日中聞いて、研究しここぞというところで、現場に向かい、瀕死の重症を負った人々、あるいは虐殺された家族を表情一つ変えずカメラの映像に残す。そこで、エスカレートする彼の行動はどこで終着点を見出すのか?と最後まで目が話せなかった。2時間弱の尺でコンパクトにまとまった映画だった。

 先ほど「自己批判モノ」といったが、恣意的かつ受け手の求めるような形で一種の物語を提供するのは、映画も同じことである。テレビ局の醜態をさらすこと(それがどこまで事実を忠実に描いているかどうかは別問題だ)は、ハリウッド界の、直視して欲しくない現実を、観客に意識させてしまうことに成りかねない。傑作『トゥルーマン・ショー』でも、ジムキャリー演じる主人公の人生そのものが、壮大なリアリティショーだったという設定が衝撃的だったが、これまた、観客の求めるものを強引に実現してしまうテレビ側の態度を批判することが、映画を批判すること(例えばドキュメンタリー映画もヤラセだ、というありきたりな指摘)を誘発し得る。

 一応説明するが、個人的には映画にもテレビにも現実を忠実に描いてもらおうなどと、素直に期待はしていない。「客観的な報道」など、矛盾した言葉だとすら思えてしまう。本作が示すように、どの事故現場に行って、どのようなアングルで撮って、それをどのように編集して、どの順番でストーリー(報道)を用意するかで受け手の印象は大きく変わってしまう。客観的であろうと努力は出来るが、主観性を完全に排除することは不可能な話だ。(そらそうだろと思う方もいるだろうが、「偏向報道だ」と非難の声を上げてしまう人々はそのことが一応理解は出来ていても、意見形成の際はそこが抜け落ちてしまっていたりする訳だ)

 映画におけるカリフォルニア州だって、犯罪の巣窟として描かれる(ギレンホール主演の『エンド・オブ・ウォッチ』が好例)と同時に、常夏の楽しい町として描かれていることだってある(ピクサー映画等)。どこに目をやるかによって随分、スクリーンに映し出される製品は変わってくる。今回の『ナイトクローラー』は、LAの闇をかっぽじりまくるにーちゃんの話である。色んな側面からまたLA映画を観てみるのも面白いかもしれない。