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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『名もなき者』と併せて見たい(偽)音楽伝記映画

 

ボブ・ディラン伝記映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』最新予告編が解禁 - THR Japan

 

 先日ジェームズ・マンゴールド監督、ティモシー・シャラメ主演『名もなき者 A COMPLETE UNKNOWNを見た。言わずと知れたミュージシャンボブ・ディランが、文字通り名もなき者から大スターとなるキャリアの最初の5年間を描いた映画である。アメコミ映画『LOGAN/ローガン』(2017)の後に『フォードvsフェラーリ』(2019)という骨太な映画を撮ったマンゴールドは、『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(2023)の後にこのような映画を撮った。そう考えると続編やフランチャイズの仕事を終えた後のマンゴールド作品は注目すべきなのだろう。

 この映画の魅力はまずボブ・ディランの周りの人物たちにも焦点を当てて、ディランの才能の開花と対応して悪化する自分勝手さを浮き彫りにしているところだと思う。そして何よりも長いキャリアの一部分だけを切り取って、音楽家の人生のダイジェスト版的な語りを回避したことだろう。『ボヘミアン・ラプソディ』や『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』などの映画を比較すると分かりやすいかもしれない。

 ここまで書いておいてなんだが、音楽家の伝記映画というサブジャンルは生き延びてものの、これは一種終わりを迎えていてもおかしくないものだと思っている。この辺は


www.youtube.com

↑の動画でPatrick Willemsが述べたことの受け売りだが、2007年で全米公開された『ウォーク・ハード ロックへの階段』という映画を一度見てしまえば、真顔でこのジャンルの映画など撮れなくなってしまう。この映画は、架空の主人公デューイ・コックスの人生を描いており、それはマンゴールドがかつて監督した『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』のパロディになっているのだが、そのパロディの対象はジョニー・キャッシュのみに留まらない。この映画にはビートルズも出てくるし(なおモノマネのクオリティは個人差が激しい)、『名もなき者』が描く時期のボブ・ディラン的な作風の曲を歌う場面もある。

 本作の監督が↓の記事で語るように、この映画の脚本を書く際、彼はこのジャンルの研究をかなりしたようだ。その結果、王道の展開を踏まえつつそれを徹底的に風刺する映画が生まれている。監督本人は決してそういった定式に則った映画を貶めるつもりはないし、愛があるからこそここまで荒唐無稽な傑作が生まれたのだと思う。しかし、この映画を見るといかにこのジャンルが有名ミュージシャンの曲を使うという特権を享受しておいて、その人生を陳腐化しているように感じてしまうのだ。しかし、これらのことはあくまでも後付けだ。私も『ウォーク・ハード』の予告編こそテレビで見ていたものの映画館にわざわざ行こうとは思わなかったし、実際この映画はヒットしなかった。今でこそカルト映画として認識されつつあるようだが、そこまで真面目に考えるのは当時としてはナンセンスだったのだろう。

www.theringer.com

 

 偽音楽伝記映画としてもう一本紹介したい映画がある。『こいつで、今夜もイート・イット~アル・ヤンコビック物語~』(原題:Weird: The Al Yankovic Story)である。ハリー・ポッター以後のダニエル・ラドクリフのキャリアは本当にユニークでとても面白いのだが、その話はまた別の機会にするとして、この映画もパロディ映画だ。そもそも、題材であるアル・ヤンコビックは少なくともアメリカでは有名なパロディ歌手であるという点が重要である。先ほど挙げた『ウォーク・ハード』では、かなり誇張した形でこの種の伝記映画のステレオタイプを提示する。例えば、本人に絶大な影響を与えた過去のトラウマ、マネージャーによる搾取、薬物依存による自暴自棄な生活、奔放な生活から見出す真実の愛、キャリアを代表するコンサートなどがある。

 しかし、そういった定型は良くも悪くもヤンコビックには該当しない。売れない時期があって苦労したということはあるものの、世間的にも彼はロックスターではなく、割と普通のおどけたおじさんなのである(だからコメディアンたりえる)。そもそも彼は当時のヒット曲の替え歌でヒットを飛ばす存在であって、その彼を映画にすること自体が風刺に他ならない。

 したがって、この映画では脚色といったレベルを超えて完全にヤンコビックという存在をおもちゃにして(共同でヤンコビック本人が脚本を担当している)、「今夜はビート・イット」の原案は自分が書いたのにマイケル・ジャクソンがそれを盗用するというあまりにもバカバカしい歴史改変があったり、メキシコの麻薬王と戦争になったりと無茶苦茶な展開が続く。しかしながら、ここまでやっても音楽家をめぐる伝記映画というジャンル自体は元気にやっているのである。

http://「こいつで、今夜もイート・イット~アル・ヤンコビック物語~」をU-NEXTで視聴 https://video-share.unext.jp/video/title/SID0102015?utm_source=copy&utm_medium=social&utm_campaign=nonad-sns&rid=PM049071147

 

 

 

 

 

『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』と『キャット・パーソン』:ハリソン・フォード像の表象について

 Captain America: Brave New World (Marvel Studios) Film Review

 『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールドを見てきた。レッド・ハルクを予告編だけでなく、ポスターでも大々的に宣伝してしまうのは若干ネタバレ気味ではないかとか、アメリカの艦隊にミサイルまで発射するやたらアグレッシブな日本の描写はどうも変だとか、政治サスペンスとしてあまり上手く機能していないんじゃないかとか、言いたいことはまだ他にある。あまりそういった点に注目してもこの記事に目新しさはないと思うので、一旦別の映画の話を迂回してハリソン・フォードについて少しだけ語りたい。 
A woman looks up at a taller man.
 『キャット・パーソン』という心理スリラー映画が2023年に全米で公開された。監督は傑作青春コメディ映画『ブックスマート』(2020年)の脚本家スザンナ・フォーゲルで、主演は『コーダ』(2022年)などでおなじみのエミリア・ジョーンズである。原作はニューヨーカーの短編小説で、そのリアルな人物描写についてはネットで様々な反応があった。その話題を大いに呼んだ原作の短編を約2時間の長編に翻案する際、非常に多くな改変が成された。特に終盤の展開については、原作を読んでいるかどうかは別として、かなり物議を醸す選択がなされている。正直なところ、この映画の脚本に原作に対する反発も入れ込んだ結果、テーマの一貫性が若干揺らいでしまい、本作がかなり歪なものとして仕上がっているところは否めないのだが、それはそれで個人的には嫌いになれないカルト映画として仕上がっていると思う。
 

 その『キャット・パーソン』では、昔のハリソン・フォードが話題に上る。しかも、その会話内容から人となりが分かってしまうという作りになっている。大学生2年生の主人公マーゴットが年上の男性ロバートと出会い、ロマンス(なるもの)が芽生え始めるのだが、ロバートは『帝国の逆襲』を何度も映画館で鑑賞して「男らしい」ハリソン・フォードに憧れている映画オタクなのである。今の我々からすれば、『帝国の逆襲』でも『ブレードランナーでもヒロインに同意もなくキスしてしまうフォードの振る舞いを擁護するのは時代錯誤的だろうし、この一昔前のハリソン・フォード像は本編の中でも主人公の親友によってはっきりと批判されている。

 自分はこの場面を見ていたので、『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』という映画が、二代目キャプテン・アメリカの映画というよりも、元将軍の"サンダーボルト"・ロスを演じるハリソン・フォード(故ウィリアム・ハートの跡を継いでいる)が自分の「有害性」と向き合う話のように思えて仕方なかった。大統領役は経験済であるハリソン・フォードがロス大統領を演じることで、彼の物語を大々的に取り上げるようになったのは想像に難くない。CMの時点でフォードことロスがレッド・ハルクとなって大暴れすること(何の捻りもなく本当にラスボスだったのには驚いたが...)は分かっていたので、ロスはどこかで心を乱すことは読めていた。したがって、前述のようなヒロインとキスするような場面は当然ないものの、老いた大統領として彼は娘エリザベスと和解したくとも本人と向き合うことを避け続けるし、後ろめたいことは話せず、それが外交上の悪手につながる。

 そういった彼の言動にどこか『キャット・パーソン』で登場するフォード像と相通ずるものを感じた。要するに交渉ができるサムとは異なり、本作におけるロス=フォードとは、使うべきところで自分の言葉を使えず、それゆえ間違ったところで間違った強気な行動に出てしまう不器用な男なのである。そして彼は簡単に黒幕の言葉により煽動され、怒りを統御できずに巨大な赤鬼として大暴れしてしまうのだから、これを一種のメタファーだとするなら、これほど分かりやすいものはないだろう。

 もちろん、説話的な都合としてエリザベスがもっと早い段階で出てきていればおそらく話はさっさと収束していただろうし、サムvsロスの最終バトルも、もっとエリザベスの話を早い段階で切り出せていればあれほどの被害はなかったかもしれない。しかし、それはこの映画の限界であると言わざるをえないだろう。何はともあれロスは最終的に自分が作った刑務所に自ら入ることを選ぶ。それは自らの「有害性」ときちんと向き合えるようになったことを意味することに加え、ハルクになってしまうという危険は単なる「根性論」だけで回避できないし、常に自分の中に魔物が巣くうことを認識しているという意味もあるのだろう。

2025年1月の3点(『ビーキーパー』『嗤う蟲』『トワイライト・ウォリアーズ』)

『ビーキーパー』デヴィッド・エアー監督、アメリカ・イギリス合作

Jason Statham with a beard and hat in The Beekeeper

とりあえず新年早々にこういう映画を見るのは縁起が良い?ということで↓の投稿に書いた。

ykondo57.hatenablog.com

 

『嗤う蟲』城定秀夫監督、日本

田舎でのスローライフを求めて移住してきた若い夫婦が、村独特の恐ろしい掟にじわじわと真綿で首を絞められるような状態に追い込まれていくスリラーで、99分でここまで語ってしまう城定監督による演出の経済性には舌を巻いた。後味がただただ悪い映画でないことだけは一応言っておきたい。

 

『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』ソイ・チェン監督、香港

今年の自分がここまでのアクション映画に映画館で出会えることはおそらくないし、これからも当分ないだろう。

 

『リアル・ペイン』おかしな二人と石

 『リアル・ペイン~心の旅』は、『ソーシャル・ネットワーク』でマーク・ザッカーバーグを演じ、『ゾンビランド』でゾンビだらけの日常を生き抜く主人公を演じたことでもお馴染みのジェシー・アイゼンバーグの長編第二作である。アイゼンバーグ演じるデヴィッドは、祖母を亡くして喪失に暮れるエキセントリックないとこのベンジーとあまり会えていなかった。そんなデヴィッドとベンジーは、ホロコースト生存者である祖母の生きたポーランドと訪れ、「ヘリテージ・ツアー」と呼ばれるツアーに参加することとなるのだが、二人の間の摩擦が表面化しつつ、明言してこなかったベンジーの過去も明かされることとなる

 舞台はポーランドで、ショパンの素晴らしいピアノ曲が終始流れるしっとりとした映画ではあるが、90分以内でしっかりロードムービーとしての趣が出ているのはよかった。物語は空港にいるベンジーのクロースアップから始まり、やはり終わりも同じく彼のクロースアップである。留まるべきところではないところにあえて留まる、というベンジーの選択は彼本人が大きな転換の狭間に留まり続けること(長旅があったから職に就くとかいう話ではないのである)を意味しているのだろう。

 平手打ちの話がそこで来るか!という驚きはあった。あれデヴィッドなりの愛情表現なのだろうが、それをあのタイミングでやるのは違うだろ・・・という可笑しさがあった。

 石のモチーフもなかなか良い。石をお墓の上に置くというユダヤ的な行動がベンジーなりの敬意の示し方として一同全体に良い影響を与えるところを見て主人公が亡き祖母のかつての家の前に石を置いていく。しかし、近隣の住民に危ないからどけてくれと言われてしまう。ベンジーは、地元の人間ともっと交流しないのはツアーの方針として少しおかしいと前の場面で指摘していた。彼の意見自体は間違っていないのだが、地元の人との交流はこうした若干ほろ苦いものとなっている。そんなほろ苦い経験を伴った石をデヴィッドはアメリカに持ち帰ってしまっており、それを自分の家の玄関口にそっと置く。本編冒頭ではベンジー大麻ポーランドに持ち込もうとして慌てていた姿とは対照的で、彼はあっさりこの石を「密輸」していたのである。その密輸者デヴィッドは温かい家庭空間の中に舞い戻り、ベンジーは空港という異空間に留まっている。2人の人生がこの旅で抜本的に変わったわけではないが、一旦は失いかけていた絆をビンタや石で再び取り戻したことだけはたしかだ。

 

 

 

 

『ナイトビッチ』獣になった主人公、そしてあのラストの解釈

 マリエル・ヘラー監督、エイミー・アダムズ主演の『ナイトビッチ』を見た。アメリカで劇場公開されたので、日本もあわよくば、と思っていたのが残念ながら配信スルーとなってしまった作品で、ジャンルとしてはホラー要素も若干入ったコメディドラマ(いわゆるdramedy)である。

 アーティストだった主人公が育児に忙殺され、正式に自らのキャリアを諦め、専業主婦にならざるをえない状況に直面する中、自分の体の異変に気付き、自分がもしかして犬になりつつあるのでは、と思い出す。

 

ykondo57.hatenablog.com

 今までの三本の長編作の評価がどれも高く、良作を作り続けてきたヘラー監督にしては、賛否の分かれている作品である。たしかに本人の独り言を幼児が理解していないという口実があるとは言え、心情が説明過多なところはあるし、終盤にかけての流れと、自分は犬なのか?という要素とがうまく嚙み合っていない印象は受けたので、評価が割れたことは十分に理解できた。

 とはいえ、約100分の中でヘラー監督の作家性が随所に見られる作品ではある。さらっとした毒気はあるが、見る者をクスッと笑わせるユーモアや、主人公の脳内をCGやアニメを用いて見せる手法は、とりわけヘラーのデビュー作『ミニー・ゲッツの秘密』(2015年)に見出すことができるし、共働きを選んだはずの夫婦において、夫だけが会社仕事に従事し、結局のところ育児はもちろん家事全般を妻に任せきりになりがちだという問題は既に前作の『幸せへのまわり道』(2019年)で描かれていた。あの映画でも、急に子ども番組の演出法で主人公が現在と過去のトラウマを思い出す悪夢的なシークエンスを描いていたので、やはり本作と相通じるところは多い。

 また、容易に言語化ができない育児の経験をアートに昇華させて、観客もそれを追体験できる演出や、いざ夫が「ワンオペ育児」を始めるとなぜか犬の遠吠えの幻聴?が聞こえてしまう、という描写はなかなか面白かった。

 ここからは最終シーンに触れる。

 たしかに育児によって随分大変な思いをしたのにまた突然の出産シーンが出てくる。「あれだけ子育てで参っていたのにいきなり二人目を産もうという展開は非常に母性礼賛的だ」という指摘はごもっともである。作り手としては当初のテーマ(育児が人を「犬」にさせる)をコミカルに反復していると受け取れるし、そこにそこまで深い意味はないように思えるのだが、こちらとしてはもう一歩踏み込んで考えたくなった。作品における意図はさておき、排除できたように思えた脅威も、最後の最後でまだ存在していること(死闘の末倒したはずの殺人鬼はまだ死んでいなかった!など)が示唆され、一種のバッドエンドで映画を締めるのがホラーの定石の一つだとするならば、『ナイトビッチ』もまたさらなる試練が待ち受けている、またあの自らの中にある「犬」と向き合わねばならないのか・・・という怖いエンディングだという解釈もできなくはないと思った。

 正直なところをいうと、自分は育児版『キャットピープル』のようなものを期待していたので、それとはまた異なる趣旨の映画だったことは間違いない。しかし、そういえば『私ときどきレッサーパンダ』は、ホラー的演出こそないが、主人公の実存をめぐる葛藤と、モンスター描写とが有機的に交わり、それでいてアニメーションならではの、陰惨にはならないカタストロフがしっかりと描かれていて、やはりあの映画は何度でも語られなければならない・・・という話はまた別の機会に。

 

 

『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』トランプをめぐる師弟もの

 The Apprentice

 一文にまとめてしまえば、師匠を足蹴にする冷徹な一人の(つまらない)ビジネスパーソンが生まれるまでの話である。もちろん、自分がこの映画を見ることにした一因には「題材が今の大統領だから」ということはある。しかしながら、劇映画から史実について何か有用なものを学ぼうとする態度に危うさがあることも重々承知している。各シーンが事実なのか創作なのか、はたまた両者の混合なのか、映画本編を見るだけでは判断できない。事実について学びたいのなら、新聞記事を読んだり、ノンフィクション本を手に取ったり、あるいはドキュメンタリー映画を見たりするべきだろう。それでも現実を理解するにおいて新しい視座を得るため、あるいは私たちが既に知っている人物だからこそ生み出せる物語を見るため、私たちは足しげく映画館に通う(のかもしれない)。 

 といった言い訳をしたところで、トランプ本人に関する事実関係はさておき、敏腕弁護士ロイ・コーンという「悪魔」と契約した主人公にとっての師弟関係が後半反転するところが印象的だった。その「悪魔」ですら多少の温情はあったのに、トランプにはもう微塵も残っていなかったことをコーン自身から告げられるが、トランプにとって自分のモラルの著しい劣化など、成功してしまった本人にとってはどうでもよいことなのだ。主演のセバスチャン・スタンは、映画の前半ではおどおどした雰囲気を拭い切れない20代の一人の男としてドナルド・トランプを演じていたが、後半で彼が有名人になっていくにあたって*1、今の私たちがよく知るトランプ特有の仕草が徐々に見られるようになる。今まで彼のモノマネ、とりわけその特徴的な声色を真似てきたコメディアンは枚挙にいとまがないが、今回のスタンはそういったパロディにならないようなバランス感覚でもってトランプを演じていたと言える。

 トランプ大統領の誕生は、この映画の終わりからまだ数十年もの隔たりがあるのだが、女性との浮気、トランプタワーの建設とその後の相次ぐ破産を示唆するような父親の昔話(人口の滝(fall)の前で「トランプビレッジ」の崩壊(fall!)を語る)、レーガンのMake America Great Againのバッジ、大統領として立候補したらどうだという提案など、2025年の現在につながるような「伏線」めいたものがちりばめられているのはなかなかうまいところだ。

*1:大事なことだが、それは必ずしもビジネスマンとして「成功」を収めていることを意味しない。むしろ少なくとも本作において、トランプとは富裕層のみに許される免税に助けられている一方で、エゴの肥大もともなって、ことごとく投資の選択に失敗し続ける経営者として描かれているといっていいだろう

在宅鑑賞日記⑧ テレビで映画を部分的に見ることについて

某日 『マッドマックス』(1979年)がテレビでやっていた。お恥ずかしい話ながら、シリーズ一作目の本作を実は最後まで見たことがなかったので、これを機会として後追いで通して全編を見たのだが、この決してスカッとしない復讐が『フュリオサ』に引き継がれていたのを改めて確認することができた。改めてあのディメンタスの末路がいかに強烈であると同時に、あの選択がフュリオサにとって最善の選択であることを自覚できた。

Mel Gibson in Mad Max (1979)

某日 『リオ・ブラボー』(1959年)がテレビでやっていた。最後の20分ほどを見る。この映画は10年以上前に一度だけDVDを借りて見たことがあったのだが、あれからハワード・ホークス監督作に対する知識を少なからず得て認識も少しは変わったので、この映画をどう楽しむべきか多少なりとも分かったつもりではいる。最後の銃撃戦を見返していると、そういえば黒沢清の『Cloud』(2024年)は壁越しに展開するガン・アクションに結構拘って撮ってたんだな、などと思い出すことがある。こういった気づきはなにげなくテレビで放映中の映画を見ていることで初めて得られる。

John Wayne and Walter Brennan in Rio Bravo (1959)