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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『エルヴィス』大佐とウェルズ


 最近音楽家の伝記映画について考えることが増えたので、ぜひ見なくてはと思い鑑賞した。

 『エルヴィス』は、バズ・ラーマン監督独特の豪華絢爛なタッチでエルヴィス・プレスリーの半生を描いた伝記ものである。2時間半を超える作品であるため、若干冗長な箇所はあったものの、ペースは決して鈍重ではなかった。その背反するスピード感ゆえに大変不思議な気分にさせられた、というのが率直な印象だ。

 ミュージシャンとしての起源、家族との不安的な関係、のちの妻となるプリシラとの出会い、マネジャーによる搾取と支配、自己破滅への道、と大体抑えるべきところは抑えてあるように思えるという点においては、定型的な伝記映画のプロットだと言える。しかし、本作が一筋縄ではいかないのは、語り手がマネージャーのトム・パーカー「大佐」であるからだ。生前、エルヴィスの実生活を徹底的にコントロールしていた人物が、本人死してなおエルヴィスの語りをコントロールしている、という構造は残酷なものに思えてしまう。

 これはバズ・ラーマンからすればさして奇妙な選択ではないのかもしれない。例えば、同監督による『グレート・ギャツビー』(2013年)も、語り手はギャッツビー本人や全知の語り手ではなく、隣人ニック・キャロウェイであった。もちろんこの設定自体は原作にあるものだ。しかし、語り始める時点でのニックは精神病院にいる。そして、自分を破滅の道に導いたであろうギャツビーとの過去を思い返し、「グレート・ギャツビー」という小説を彼が治療の一環として執筆する、という大枠の構造がラーマンの映画版では用意されている。結果として『ギャツビー』も『エルヴィス』も幾分興味深い構造を成しているのは間違いない。

 そして、大佐が語っていることで、エルヴィスの人生について批評を加えることができている。しかし、語りのレベルが複雑になったからと言って、物語全体の質が劇的に向上したと自分は思わない。むしろ一体誰にどう感情移入すればいいのか分かりにくくなっているように思えた。

 本作を見ていて、何よりもびっくりした点は大佐が心臓発作で倒れる冒頭のシーンで、『市民ケーン』(1941年) のオマージュがあったところだった。これは監督もインタビューで認めているところだ。さらに鏡張りの部屋に大佐がエルヴィスを閉じ込め、「出口」を教えてあげるというシーン*1も『上海から来た女』(1947年) のクライマックスを想起したのだが、これはさすがにこじつけかもしれない。いずれにせよ、オーソン・ウェルズも「映像の見せ方」にこだわる人だったと言えるので、そこに共通項が見いだせるのはーただの自分の不勉強かもしれないがーなかなか興味深かった。ウェルズは絶対2時間半超えるような映画は撮らなかったのだけれど。

 

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*1:このシーンでは、大佐はあえてエルヴィスだけを自分で部屋に閉じ込めておきながら、あたかも親切な人間かのように彼を「出してさしあげる」。このモチーフは本作全体に通底している。なぜなら、エルヴィスを束縛するのも、彼にまやかしの自由を差し出すのも大佐一人なのであって、エルヴィスがどれだけあがいても自分の力で「出口」を見つけることは最期まで出来なかったからだ。