[PR]カウンター

アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

韓国のデスゲームドラマにおけるノスタルジーとアメリカ 『イカゲーム』小論

 近年、世界で最も話題になった韓国映画が『パラサイト』だとすれば、今年最大の韓国産の話題作は本作だということになる。ともすれば、韓国社会の格差が注目されるのは当然のことであり、その点に関しては既に日本語の評論もあるので、今回は「ノスタルジー」と「アメリカ」にフォーカスして少しばかり論じてみたい。なお、結末部分には触れているので未見の方はご注意ください。
 
 個人的には、アメリカ的なもの、あるいは欧米的なものがどう他国で描かれているのか気になる。特に映画やドラマの内容を比較検証するとき、常に日韓米の三視点は念頭にあるので、そういう意味でも今回『イカゲーム』は大変興味深く見た。例えば第1話で「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」が流れる中、スローモーションで次々と参加者が銃撃に倒れていく「死の舞踏」のシーンや、物語前半で描かれた庶民的な食事シーンと対比されるような形で、壮絶なデスゲームを勝ち上がった3人に振舞われる豪華絢爛な洋食の晩餐シーンを挙げることができる。いわゆる「欧米的」なものが登場するのは、ほぼ毎回そのゲームの参加者を愚弄するためであって、全く救いの手を差し伸べてくれない感じがすさまじい。
 加えて、主人公ソン・ギフンがイカゲームに出場することにしたそもそもの理由もアメリカと無縁ではない。元妻との娘が渡米してしまい、彼女と会えなくなるという要素も一因であると考えられる。もちろん、子供の将来のために家族が渡米すること自体は韓国で決して珍しいことではない。しかし、金のないギフンにとって娘が国を出てしまうことは、自力で彼女と再会することは叶わないことを意味する。結果として母国ではなく、アメリカという「より豊かな国」が娘の「親権」を掌握してしまうのだ。本シリーズは、ギフンがLA行きの飛行機に乗ろうとするも、結局イカゲームに再び参加することを決め、引き返すところで幕を閉じる。つまり、ギフンはあれほどの人生における痛みとそれと同時に大金をもたらした韓国を一旦は離れようとする(ただ、有り余っている大金を持っている彼は今やどこでも生活できる)が、結局それはまだ存在するイカゲームという邪悪なシステムから目を背け、退避することをも意味する。そこで、ギフンは我が国に留まり、目の前の(あるいは携帯越しに耳に届く)問題に立ち向かうことを決意するのだ。
 
 先ほど述べたように、本作が格差問題を描いていることは明らかであるし、「金持ちの娯楽」であることも最終ゲームの時点で言及されていた。しかし、黒幕の正体が参加者No.001の老人オ・イルナムだったことが明らかになるところから、また別の要素が付与されていることが浮き彫りになる。そして、自分の動機が具体的にどこにあったのか彼が話す。彼の動機は端的に言えばノスタルジーだ。彼によると、金融にて巨万の富を得たものの、人生に楽しみを見出すことはもうできなくなった。思い返してみれば、子供時代に友人と外で遊んでいた頃が一番楽しかった。そして、あのギフンが参加した回に自らも参加し、あの頃のように楽しみを味わいたかったと言う。
 イルナムが脱落し、射殺されたはずの「ビー玉遊び」の第6話では、今まで以上に「楽しかったあの頃」を再現するため、昔懐かしい家屋が並ぶ舞台が用意されていた。それに加え、暮れる夕日がさらにノスタルジーを喚起させるような様を呈していた。あの首が180度回転するロボットがリードする、殺伐とした「だるまさんが転んだ」や、周りが真っ暗闇の中展開する「綱引き」などとは極めて対照的なステージであったことが分かる。そこで、イルナムは当初ギフンとのビー玉遊びの勝負であと一歩のところまで勝ち続けていたものの、最後は認知症の発症を偽ってまでして、ギフンに花を持たせた。ギフンのおかげで本当に楽しかったのだから、これで自分は満足した、という名目で彼はゲームから上手く降りてみせる。極限までドライで残酷なデスゲームを描く本作だが、心をぐっと揺さぶるような、ウェットな場面も本作で何度もあったが、恐らくこの時点では最も切ない死をイルナムは自作自演したのだ。(たしかに後で考えてみれば、執拗に参加者が射殺されるところを見せてきた本作にてあのチョイスは際立つものではあった。当然ながら、余命あとわずかの老人の射殺シーンをあえて見せない・・・のは十分に理解できそうな流れではあったのだがそこが罠だった)自分が失ってしまった純真無垢な子供時代のノスタルジックな「うまみ」を味わうために、極めて歪んだ形で大金で参加者たちを集め、子供遊びの場に投げ込む。したがって、筆者としてはいわゆるデスゲームものと本作を比べるよりも、「潤沢なリソースと大いなる野望を持った大人たちによるノスタルジーの再現という暴走行為」を描いた点において、例えば『オトナ帝国の逆襲』といったものを想起してしまう。そこには、過去の自分に無垢で純然たるを見出すあまり、そのノスタルジーに直接関係のないはずの他人を大勢巻き込み、彼らの人生をいかようにも操ってしまう恐ろしさがある。自分の生命は参加者番号に還元されてしまう中で、自分の本名をギフンに教える場面は本作中でとりわけ印象に残っているが、自らの生身のアイデンティティを明かしたこと自体は真実の瞬間だったはずなのだ。それだけ彼はこのゲームに入れ込んでいたのだ。他人の生命を手玉に取ってもいいと思ったのだ。そこには格差だけで語れないイルナムの動機があった。
 
 最後にイルナムの死について一考してみたい。ここではあえて貧富の差を議論の中心に据えたい。イルナムは、死の床でギフンと最後のゲームをしないか、と提案する。夜中の零下で凍え死にそうなホームレスに助けの手を差し伸べる人が制限時間になってもいなければイルナムの勝ち、誰か来ればギフンの勝ち、という一種の賭けである。イルナムは今まで金貸しをやってきて社会の冷たさを理解したつもりであって、直接誰も殺さずにデスゲームを勝ち抜いたギフンの夢を打ち砕こうとするのだ。しかし、文字通り「上から目線」でホームレスの男性をまなざすイルナムは大時計が鳴ると同時に息を引き取り、本人が知りおおせぬところで賭けの対象にされていた男性は救護される。ギフンの言う通り、イルナムの「負け」である。(ここでもギフンは人を自らの手で殺さずに済んでいるのはやはり彼が本作の主人公である所以か)末期がんに対する完治法はお金で買えないように、見ず知らずの人間の善意もお金では買えない。結局のところ、人生における決定的瞬間は金銭で操作できないのだ。