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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『スーサイド・スクワッド』評論抜粋拙訳 (スーパーヒーロー映画は西部劇と同じ運命を辿るのか?)

 ジェームズ・ガン監督の『ザ・スーサイド・スクワッド(副題略)』(2021)を先日観た。大作映画の「リブート」こと「やり直し」ほどみっともないこともないのだが、このバージョンを鑑賞できたことには感謝しかない。
 鑑賞後色々感想や評論を読んでみたが、以下の記事の指摘がとりわけ印象に残ったので、その後半部分を訳してみた。DeepLで一旦機械翻訳してから多少の変更を加えただけの文章なので、文意の伝わりにくいところはご容赦頂きたい。
 当の記事は、英The GuardianのBrogan Morrisによる"Is The Suicide Squad the beginning of the end for the superhero movie?"(2021年8月5日)である。タイトルを直訳すると、「『ザ・スーサイド・スクワッド』はスーパーヒーロー映画の終わりの始まりか?」となる。

www.theguardian.com

 ミュージカル、大作映画、恋愛映画。いずれのジャンルも興行的に成功を収めた時代がありました。昔々、西部劇が主流でした。長きにわたり、西部劇の映画やテレビ番組が定期的に作られ、カウボーイのコンテンツの流れが途絶えることはないだろうと思われていました。しかし、ファンの年齢層が高くなるにつれ、西部劇は進化していきました。マカロニ・ウエスタンが人気を博した時期には、伝統的な「白い帽子」に代わってアンチヒーローが登場し、サム・ペキンパー監督の「ワイルドバンチ」のような血みどろの映画を皮切りに、西部劇は修正主義の段階に入ります。今までの西部劇に対する反省の時期を経て、これまでで最も優れたカウボーイ映画の例が生まれました。その後、このジャンルは自ら持っているものを使い果たし、衰退していきました。
 『スーサイド・スクワッド』や『ウォッチメン』、『ザ・ボーイズ』などのテレビ番組を見ると、スーパーヒーローのジャンルも今、「修正期」にあるように思えます。『スーサイド・スクワッド』のピースメーカーは、来年HBO Maxで放送されるR指定のテレビ番組のスピンオフに出演するなど、大人向けのスーパーヒーローものの企画数は増えていますが、その一方で家族向けのものが犠牲になるかどうかを判断するのは時期尚早です。『ブラック・ウィドウ』の興行成績の低迷は、マーベルのクリーンで従来型のスーパーヒーロー物語への関心が薄れていることを示しているのではないかと考える評論家もいますが、この作品の不振を招いた無数の要因を考えれば、懐疑的になるのも無理はないでしょう。
 スーパーヒーロー映画がハリウッドにおけるナンバーワンのジャンルとしてどれだけの時間が残されているにせよ、このジャンルが現在直面している進化の段階は、特に魅力的であると言えます。歴史修正主義的な西部劇の段階においては、『ギャンブラー』(訳注:ロバート・アルトマン監督による1971年作) や Ulzana's Raid などの名作が生まれました。これらの作品は、何十年にもわたって使い古された型を構築し、それを覆すことができなければ存在し得なかった、非常に深みのある映画です。『スーサイド・スクワッド』に続く、大人向けの修正主義的スーパーヒーローの物語も、先行作と同じくらい自由かつ独創的で、時事性に富んだものが求められているのではないかと考えたくなります(そう、『スーサイド・スクワッド』はアメリカの外交政策についても言及しているのです)。
 2年前に巨大な興行成績を収めたマーベルの大作『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、間違いなくスーパーヒーロー映画の人気の絶頂を表す作品となるでしょう。一方、『スーサイド・スクワッド』は、スーパーヒーロー映画にとって、西部劇にとっての『ワイルドバンチ』のような存在であることを証明するかもしれません。つまり、血まみれの、現状をがらっと変えた結果訪れる一つの段階の終わりと、さらに豊かな別の段階の始まりであるのかもしれません。

  

 (ここからはネタバレ注意)

 

  上の「アメリカの外交政策について一言ある」という箇所については、本当にその通りで、その批評性があったことで個人的には本作が格段に良くなったと思う。本作の主戦場が(架空ではあるが)中南米の小国であることには必然性があった。スクワッドの司令官が血も涙もない人間なのは分かるし、その部下もやはり同様にモラルが腐敗しているのも分かる。しかし、そこで腐敗が止まっている訳では当然なく、結局のところアメリカ政府が腐敗しきっていたことが示される。もちろん、その腐敗性に対するスカッとする答えは提示されない。主人公たちは自分の身と社会正義との間で妥協する。しかし、おそらくスーパーヒーロー映画の中で最もまっとうな形で「政治的であること」を選んだ作品であるように思えた。