『ミナリ』は、基本的に少年デビッド(写真左から2番目)から見た「暴走父ちゃん」の物語である一方で、クロースアップが父ジェイコブよりも母モニカの方に多かったように思えた。それが正しいのであれば、映画が寄り添おうとしてるのはむしろモニカの方だと考えることも出来る。カメラはジェイコブと少し距離を取っているのかもしれない。
しかし、例えば姉アンの存在の希薄さは気になるし、
『パラサイト』の「一家の娘」に向けられる関心や注意、心配といったものの薄さも大概だったけれど、『ミナリ』に至っては、お姉ちゃんの方は、映画が始まって30分くらいしておばあちゃんがアーカンソーの家に来るまで誰にも名前を呼んでもらえない。父親は最後まで息子の名前しか呼ばない。という扱い https://t.co/qlgX9FxCsQ
— 鷲谷花 (@HWAshitani) March 29, 2021
冒頭から否定していたスピリチュアリズムにジェイコブが頼らざるを得なくなる点(なんでダウジングなんだよ~『ミナリ』(ネタバレあり) - Commentarius Saevus)もあり、「厳しくもいい話」として受容するには、かなりアクの強い物語であった。
最後にだが、『ミナリ』を『パラサイト』に次ぐ話題作のように語るのは理解できる一方で、やはり現代における「西部開拓」(『ノマドランド』)だとか、アメリカン・ドリームだといったテーマをアジア系の監督が真正面から描き、そういった作品が評価されるようになったのは大きな変化であると思う。