マーベルの新作ミニ・シリーズが、『ワンダヴィジョン』という、郊外に住む中流階級の白人カップルのドタバタ劇、つまり往年のシット・コム(ファミリー・ドラマ)になるという知らせが飛び込んできたときには、驚いたと同時に相当の期待を抱いた。
というのも、昨今のアメリカ映画における「郊外」、特に1950年代的な郊外とは、もはやアメリカ流の平和で理想的な生活を体現した場所ではないからだ。むしろ郊外とは、比較的恵まれた白人の家族の欺瞞を浮き彫りにする場であり、観客である我々は抑圧されてきたものが突如明るみに出る瞬間を目の当たりにするのだ。それゆえ映画において郊外に住む「特に問題もない家族」はえてして風刺の対象となるし、突発的な暴力に出くわすことにもなりかねない。例えばここ数年の作品であれば、コーエン兄弟脚本、ジョージ・クルーニー監督の『サバービコン』はその最たる例だろうし、日本未公開作だとGreener Grassもそうであった。もう数年遡ると、『カラー・オブ・ハート』という傑作映画を思い起こすことも出来よう。また、『ゲットアウト』の冒頭で、夜中に郊外を一人歩く黒人男性が怯えていたのは、自分にとってこの場所が決して安全でないことを痛いほどよく知っているからだ。
そもそも1980年代の時点で、例えばデイビッド・リンチの『ブルーベルベット』は、1950年代が生んだ「郊外神話」なるものを内側から突き崩すような作品であったし、連続殺人鬼が登場し、意味もなく多くの人々が血祭りに上げられる「スラッシャー映画」における大概の舞台は郊外である。これは原則として、郊外はそもそも良くも悪くも何も起こりえない安全地帯であり、理由なき暴力がそこに突如入りこむことで観客は恐怖を覚えることになるからだ。
長々と書いたが、要するに「郊外における白人家族の平和そうな日常生活」という設定には何か裏があると考えなければいけないのは、ある程度映画を観てきた人間にとっての共有知識だとすらいえよう。
『ワンダヴィジョン』の画期的な点は、ワンダの深い悲しみ(grief)を描くためにその「裏のある設定」を導入したところにある。そもそもヴィジョンは『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』の時点で死んでいるのだから、第1話のように、ワンダヴィジョン夫婦が平和な日々を仲睦まじく送っていることはありえない。次回からは結末までの展開を考えていきます。