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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

パンデミック・ムービー Case 1 - 『マルコム&マリー』

 去年からコロナ禍により通常の映画製作が出来なくなった中、それでもわずかながら新作映画は生まれており、我々の自宅の画面に届いている。1918年のインフルエンザ大流行の後、大衆文化がその深すぎるはずの爪痕を見せずにいたことは、今回のパンデミックにおいて既に指摘されてきたことである。2021年以降の映画も、COVID-19についてあえて触れなくなる可能性がある。そこで、この近過去となるかもしれない世界的現象を映画が忘却してしまう前に、見えないウイルスという制約の下作られた映画の記録をいくつか残しておきたい。

 今回取り上げるのは『マルコム&マリー』だ。映画『アサシネーション・ネーション』や、ドラマ『ユーフォリア』を手掛けたバリー・レビンソンが、ゼンデイヤとジョン・デイビッド・ワシントンと組んだドラマ作品で、主要人物は2人しかいない室内劇だ。

 本作が試みたことは敬意に値する。パンデミックにより、『ユーフォリア』チームの仕事が突如無くなってしまった。そこでレビンソン監督は急遽新作をミニマムな条件で作ることを決意し、早業で映画を撮ってしまう。そして、Netflixが本作を買い取ることとなり、賞レースにも参入することが可能となった。世話になったスタッフに雇用の機会を与えるだけでなく、映画界に新しい映画作りの可能性を提示することに成功したのだ。

 しかし、結論から言えば、この作品は決してそこまで悪くないものの、内容の薄さの割には本編が長すぎた。批評家による評価が芳しくないことに対して特に異論はない。話の根幹部分は極めてシンプルで、それは映画監督(マルコム)が恋人(マリー)と夜通し口論するというものだ。そしてその理由は「受賞スピーチで恋人に感謝の言葉を言い忘れたから」という1点に尽きる。もちろん、この1点から明らかになる2人の関係性の問題は多数ある。しかしながら、100分強の本編において、口論の「第1ラウンド」が終わったと思うと、またじわじわと2人の不満が再浮上した後に「第2ラウンド」が始まり、またそれが終わったと思うと「最終ラウンド」が始まる・・・という反復はさすがに応えた。ジョン・カサヴェテス作品のようなものを監督が作りたかったのは分かるが、カサヴェテスの場合、我々は見ていて本当に苦しくなると同時に、映画でしか体験できない何かを「ふと食らってしまった」という実感があるはずだ。本作の場合、間違いなくその白黒映像は美しいが、ただ美しいだけという印象も若干残った。

 本作で最も興味深かった点は、その「頭でっかち」な点である。この映画は2人の間にある感情が暴力的にヒートアップしていくことに加え、「オレの映画論」を次から次へと吐き出していく作品でもある。その最たる例は、ロサンゼルスの新聞LA Timesの批評家によるレビュー*1に対して、大声で反駁し続ける場面だ。作中の本人は大真面目かもしれないが、その彼の「大演説」は極めて滑稽に聞こえる(一応付言しておくが、マルコムは終始かなり酔っている)。本人は「黒人」で「男性」である、という自ら変えようのないアイデンティティをもって、「この作品は黒人男性のステレオタイプを覆している」だとか「ステレオタイプに陥っている」などと論じるのは荒唐無稽であるとマルコムはがなっているのだが、オーバーな形で全てを言葉にしているせいであまり会話の内容が響いてこない。そもそもこの台詞を白人監督が黒人俳優に言わせているという点を忘れてはならない。もちろん、映画にて頭でっかちな議論が突如会話場面にて始まること自体は全く嫌いでないが、だからといって毎回それが上手く行くとも限らないようだ。映画は、台詞が乗せて運ぶ「概念」にだけ頼ったところで良くなる訳ではないことがよく分かった。ちなみに、本作はパンデミック以前の世界を描いている。しかし、大きな場所移動を供わない本作は、閉所恐怖症的な印象を払拭することは出来ていないし、時代がもたらした制約を深くその画面に刻み込んだ作品となったことに間違いないだろう。

 

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*1:監督本人は、この「白人女性の批評家」に実在のモデルはいないと発言しているが、モデルと思わしきLA Timesの批評家がこの映画に関してインタビューを受けており、それが大変興味深かった