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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

透明人間のオリジン・ストーリー 『透明人間』

(結末部分に触れています)
 
 リー・ワネル監督の前作『アップグレード』の要素もかなり継承した、傑作スリラーである。透明人間のことは別に掘り下げる必要はなく、断片的な情報だけがこちらには与えられ、むしろそのモンスターへの恐怖が増すばかり。何もない空間こそが雄弁に多くを語る。
 
 この映画、冒頭から手を全く抜いていない。むしろ冒頭が本作で最もスリリングな場面かもしれない。寝ている恋人にばれないように、主人公は出来る限り音を立てず家から脱出しなければいけない。しかし、ベッドルームはだだっ広いし、ドアのない、隣接する部屋もやたら広い。窓からは海が見える。さぞかし日中は絶景であるのだろうが、今は大変波が荒く、極めて不穏な音が遠くから常に聞こえている。しかし、それはあらゆる音が響き渡るような、広すぎる家の中をひたすら裸足で歩いていく主人公の移動を可能にしてもいる。監視カメラに映る彼氏をスマホで注視する。彼は微動だにしないが、それがむしろ彼の恐ろしさを増幅させる。
 
 全編を通して、当然ながらカメラを通して見るということが形を変えて何度も検証されていく。先述の監視カメラ、用心のためふさがれるパソコン内蔵のカメラはもちろんのこと、透明人間になるためのスーツもカメラで全身を覆うようなものである。あのスーツは周りから見られることを可能にしているのだが、それはつまり、自分だけが周りを干渉なしにまなざすことを可能にするということなのである。
 
 ただ、最終的に透明人間は透明人間として生まれる姿も、透明人間として死んでいく姿も画面に映ることは決してない。そのスーツに身を包んでいた彼は「無防備」な状態から作品に登場し、無防備なまま死んでいく。特殊スーツに身を包んだような、「スーパーヒーロー」のような、見世物的な死に方は彼に禁じられているのだ。むしろ、ヒーローとなったのは主人公である。この映画は透明人間エリザベス・モスのオリジン・ストーリーなのである。