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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『ロケットマン』と『ボヘミアン・ラプソディ』


Rocketman (2019) - Official Trailer - Paramount Pictures

 

 『ロケットマン』を見たが、大変面白かった。セックスドラッグロックンロールの三拍子が揃ったロック映画だった。シビアなところもしっかり描いていて(それでもえげつないところはいくらでもあっただろうが)ロック映画としてかなり見ごたえがあった。

 同監督の『ボヘミアン・ラプソディ』が一種のカラオケ大会、あるいはPV集になってしまった一方で、こちらは主演俳優がメインボーカルを務め、大胆なアレンジを施したエルトン・ジョンの楽曲群を歌い上げる。

 物語のスパンが長く、次々と時代が変わっていく点は『ボヘミアン・ラプソディ』と同じだが、この映画の場合、そもそも現実と妄想の境界が曖昧だ。時系列もバラバラで、子供時代に自身の全盛期の楽曲を本人が歌い出したり、急に大人になってまた子供に戻ったりするシーンがある。なおかつ本人がアルコール中毒かつドラッグ中毒者であるため、観客も次の場面に移行する度に、彼のバッドトリップを追体験することになる。しかしこれは唐突な物語展開を逆手に取った効果的な手法だと思った。

 ここでも事実とは異なる展開がところどころにあって、脚色があるのは明らかだ。しかしながら、本作における脚色はボヘミアンラプソディとは随分違う。そもそもこの作品は、ほとんど「伝記映画」ぶっていないし、事実を再構成して見ごたえのあるエンターテインメントを作ろうとする気概に満ちている。『ボヘミアン・ラプソディ』におけるフレディ・マーキュリーLive Aidに病を押して出演したことになっているが、HIVに感染していることが発覚するのはコンサート後のことであった。一応言っておくと、脚色という行為自体を非難している訳では全くない。事実をベースにしていても、映画が何から何まで伝記的事実に忠実である必要性はない。映画が良くなるのなら、変更を加えることはむしろ映画のためだ。ただ、脚色したことによる、意味ないし効果についてはしっかり考えないといけない。

 『ボヘミアン・ラプソディ』のみを見る限りでは、フレディー・マーキュリーは、自身の奔放なライフスタイルにより感染したことが一種の因果応報のように解釈できてしまうのではないか。HIV/AIDSとは、同性愛者のみが感染する病気では当然ない。しかし、AIDS危機が起こった1980年代から、異性愛とは異なる性的指向による「天罰」としての認識が大変強かった。例えばスーザン・ソンタグが『隠喩としての病い』で論じているように、フィクションにおける病の表象は、社会で共有される認識を反映していることが多いし、そこには比喩として別の意味が付随されていく。そういう意味では、あの映画におけるラストの展開の持つ意味は重い。Live Aidの再現(フル尺ではないが、そこは大した問題ではない)にこだわっていながら、あの映画は故人をある意味裏切った訳だ。

 最終的には『ロケットマン』とは全く関係のない話になってしまった。クイーンを使うなら、エドガー・ライト監督くらいのクイーン愛と機転が欲しいところだ。