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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

2018年の映画総括 下半期 (ブリグズビー、ボルグ/マッケンロー、サーチ、1987など)

下半期の映画について。

 

 前回の投稿に続き、まず2018年の映画ではない話からになってしまう。去年公開の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』は、「賛否両論」という表現が付きまとう映画だった、と個人的には記憶している。その「否」の意見が、建設的な批評精神に基づくものだけならばよかったのだが、単純に男性のスターウォーズファンによる女性嫌悪に基づくものも混ざっていた。具体的には、レジスタンス側のエンジニアを演じたベトナム系のケリー・マリー・トラン氏がヘイトスピーチの被害に遭い、自身のインスタグラムのアカウントを削除することになった。その結果、今の時代、アジア系の女性がスター・ウォーズで重要な役を持っていて何の問題があるのか、という新生スター・ウォーズの「多様性」を肯定的に見る意見もより強固になったのではないか、と思う。むしろ論点となるべきだったのは、(某友人が自身のtwitterで書いていた投稿を敷衍するならば)アジア系の出演を歓迎する、というシンプルな点よりも、いかに彼女が多様性を標榜する当作品の中で描かれていたのかという点だろう。

 

 (で、再び『デッドプール2』の話題に戻ると、日本人女優が出演していたという事実が肯定的に日本では語られていた。しかし、アジア系の描かれ方に関して言えば、特にアメリカのアニメではアジア系の髪の色がやたらピンクであることが多く、結局今回もそのステレオタイプを踏襲しているのではないか、という指摘も英語圏ではあったようだ。もちろんその彼女が実は恐らく超優秀なアサシンだ、という設定も忘れてはならないのだが、単にマイノリティを出せばいい、とかいう話では決してない訳だ)

 

 しかし当然ながら、そういったオタク性と密接に関係を結ぶミソジニーとは別に、『最後のジェダイ』による盛大なちゃぶ台返しに辟易とした観客も少なからずいたようだ。自分はその一人ではないものの、彼らの気持ちは大いに理解できる。そんな観客はブリグズビー・ベアを見るとどう思うのだろうか。

 

 何を隠そう、『ブリグズビー・ベア』は、自分たちの家族を渇望する夫婦に誘拐されたという実情を知らずに、監禁状態のまま青春時代を通過してしまった主人公の物語でありながら、その「父親」を演じていたのがルーク・スカイウォーカーを演じていたマーク・ハミルだという事実があまりにも衝撃的だからだ。『最後のジェダイ』が「父」(ルーク・スカイウォーカー)から「子」(レイ)への継承を巡る神話だとするなら、『ブリグズビー・ベア』も血のつながっていない父から子への継承を巡る現代版神話だ。いずれの場合も、父は穢れなき存在ではいられず、そんな父を子は乗り越えて自らの物語を新たに紡ぐほかない。スター・ウォーズの続き、ではなく、別のスター・ウォーズ、と思わせるだけの物語が『ブリグズビー・ベア』にはあった。

 

 箸休め的に書くとシリーズものは下半期も色々観た。しかし、『ミッション・インポッシブル/フォールアウト』において迫力満点かつ極めて危険なスタントをこなした人間トム・クルーズ、というノンフィクションにかなうものは何もなかった。また、シリーズにはなりえないカメラを止めるな!は最高のエンタメだった。観客の反応の良さが気持ちよかった。ポン!

 

 『カメラを止めるな!』は誰もが話題にしている感覚があるので、あえてこのブログで激賞しておきたいのは『ボルグ/マッケンロー』だ。性格が対照的なテニスプレイヤーが決勝戦で火花を散らす―――だけの映画ではあるのだが、その決勝戦に行きつくまでに我々の二人に対する認識が180度変わってしまう、という形式を取っていることが大変面白い。例えば同じような設定で『ラッシュ/炎の友情とプライド』を個人的に思い出すのだが、あの傑作が描くのはあくまでも対照的な人間が友好関係を築きながらも、お互いの差異を極端に埋めあうことなく最終戦で衝突する様だ。

 

 極めて理性的で冷静な王者ボルグに向かうは、感情的でケンカ腰な挑戦者マッケンロー。恐らくそういった現実認識を当時持っていた人は多いだろう。しかし、当時主にテレビというメディアにより形成された二項対立は、数十年後の本作、つまり映画というメディアにより突き崩されていく。ボルグには実際のところマッケンロー以上に荒い気性のプレイヤーだった。完璧主義者というペルソナの下、ルーティーンにより必死に自身をコントロール(抑制)しようとしていただけなのだ。一方でマッケンローは、ボルグに強くあこがれていたが、プレーにはそれが反映されず、むしろ試合中積極的に怒りをあらわにすることで自分のペースを作り出し、流れをコントロール(操作)していた。そんな二人が対戦する最終試合には、手に汗握る展開とともに彼らの葛藤が滲み出る。「拾い物」と表現するだけでは物足らない映画だった。

 

 『サーチ』はたしかにPC画面上で起こることしかには映さない、という奇抜なコンセプトを完遂させた映画として興味深いが、アイデア負けしないスリラー映画だった。情報過多になりがちな個人のPC画面に、共感できるネタを盛り込みつつ、トリックのヒントを同じ画面に提示し、それでいて映画内の世界で現実に起こっている「映画のような話」がニュースの見出しを追えば少しずつ分かってくる、という多層的な本作の楽しみ方は、このユニークな形式でしか成立しえなかったものだ。未だに日本ではソフト化されない、傑作大麻コメディ『Harold & Kumar Goes to White Castle』の主演俳優ジョン・チョウの出世ぶりがうかがえる。また、鑑賞前後にNetflixの”American Vandal”シーズン2視聴をおすすめしたい。

 

 最後に触れておきたいのが1987、ある闘いの真実。今年の上半期に公開された『タクシー運転手』(これもぜひ鑑賞をおすすめしたい)が描いた「光州事件」(1980年に起こった大規模な民主化運動のデモの武力的弾圧。多数の死者を出した)から7年が経過した韓国社会を描いている。民主主義国家には道半ばの韓国の人々がいかに再び立ち上がることになったのか、スリリングかつシリアスに描いており、群集劇として大いに見ごたえがある作品となっている。多すぎる登場人物たちが大渋滞を起こしたままだった『スーサイド・スクワッド』を思い出してしまったが、少なくともその続編は例えばこの映画から何か学習した上で作ってほしいと切に願う。