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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

2018年の映画総括 上半期 (ブラックパンサー、シェイプ・オブ・ウォーター、ペンタゴン、アイ、トーニャなど)

 今年も残りわずか。とりあえず今年の前半を振り返ってみたい。

 と言いつつも、厳密には2017年12月に封切となった松岡茉優初出演作勝手にふるえてろについてまず言及したい。(この映画、年は跨いでいるので一応2018年の映画ということで話を進める) 本編にてある「大きな転換」が起きた。そのときまで、「これは傑作だ」と思っていたものの、ラスト10分ほどの展開に納得が行かないまま映画が終わってしまった。今年ベストかワーストか二極的に決めるしかないだろうなと勝手に思っていたら、いつのまにか2018年も残すところ数日だ。結局あのモヤモヤは解消されないままだ。ある設定により担保されていた「思ったことを全部口に出す」という行為の正当性が、さらなる設定変更を受けて消失してしまったことが残念だった。また見てみたい映画であることには変わりはないが。

 韓国アクション映画『悪女』はとても良かった。昨年の『お嬢さん』が韓国映画の新地平を切り開いたとするなら、本作は全世界のアクション映画の文法を変えてしまったと言えるかもしれない。

 フランス製ホラー『RAW』も、とんだ珍作かつ快作だった。青春という一期間に閉じ込められた者が、「食」を通じて「愛」の手触りを感じるという話、だと強引に要約しておく。(心理的に怖い、というよりも)時折登場するショッキングな描写があるゆえに「ホラー映画」というラベリングは避けられないだろうが、意外にも爽やかな映画。

 3月はシェイプ・オブ・ウォーター』『ブラックパンサーの二本立てが映画の日に見られる、という贅沢な月だった。前作がアカデミー作品賞に輝いた際、「怪物映画を愛してやまないオタク」として涙を禁じえなかった某映画評論家(彼がいなければ自分もこんなブログをやっていたかどうかわからないくらい多くを学んでいる評論家ではあるが)がいたが、某音楽家兼が文筆家が鋭く指摘する通り、「現代社会に於いてオタクはとっくにレコンキスタドール(著者注:再征服者、国土奪還者)として、「キモがられていた時代」を正々堂々と転覆した」のだ。

 ちなみに、2019年も二人の「論争」を見られるのだろうか。過去の例から言えば、知的でいながら熱情的な前者の映画紹介が、後者のいささか冷ややかな、それでいて時に衒学的な文体による批評文と衝突し、「論争」なる言葉でもってその現象が表現されるようになる。自分のブログを含む「映画語り」がネット空間に絶えず投稿/投降される中、映画評による対立が、一対一とは程遠く、多対多になっている今、こういったキャラの立った二人が意見をぶつけ合わせることをやはり期待してしまう。

 本題に戻る。むしろ個人的には冷戦スリラー (水面下で展開する政府の陰謀は概して「怪物的」だとは言えないだろうか)として本作を見ていたが、その観点からも大変興味深い作品だった。後期スピルバーグの傑作『ブリッジ・オブ・スパイ』がまた見たくなる。また、動物による動物への容赦ない扱い(具体的にいうと、被害"者"は猫)が、人間が非-人間に見出すファンタジー(つまり、たとえ人間でない存在でも、人間らしさは持ち得る、という類のもの)の脆弱性を浮彫りにしていたように思えた。ペット好きにはたまったものではない描写だが、人間よりもはるかに動物を大事にする映画のお決まりがここに覆っている。それを進歩を呼べるかどうかは別問題だろうが。

 またもや余談だが、『ジョン・ウィック』シリーズにおいて展開し続ける大乱闘は、主人公の愛犬(同時に亡き妻の象徴でもあるのだが)が無残にも殺されたことに端を欲する。人間の暗殺者の死体がどれだけ積み重ねられようとも、ハリウッド映画における倫理的基準はやはり一匹の犬を重要視する。生類憐みの令はアメリカにおいても健在である。

 後者の『ブラックパンサー』に関しては、「多様性」が文化的に豊潤なものを生み出す、という至極当然かもしれないことを改めて教えてくれた作品だった。一人の男が王になるために本人の成長が必要不可欠となる、という意味では『ライオンキング』、機密情報を巡るスパイアクション映画、という意味では007シリーズ、そして王座争いを巡る、陰影に富んだ人間関係という意味では『ゴッドファーザー』を意識したこの映画は、大変画期的でありながら、観客の心をつかむ伝統的要素をきちんと押さえていることもたしか。


 二本立てと言えば、質と量ともに衰えることを知らないスピルバーグが今年はペンタゴン・ペーパーズ』『レディ・プレイヤー1』を世に問うた。後者の前哨戦として前者を見た。が、個人的にはポップカルチャーつるべ打ちの後者よりも("Stayin' Alive"はたとえ皮肉でノスタルジックな場面においてですらもう映画館で聞かされるべきような曲ではない、と思う)ライバル紙に負けまいとするブンヤの泥臭い闘争記の前者の方が心にぐっと来た。

 付言しておきたいが、彼らの動機は政府の悪事を暴くというジャーナリズム的正義感に下支えされているのはもちろんだが、それと同時にビジネスとして新聞社を存続させる必要がある、という極めて現実的な問題も絡んでいることも忘れてはならない。もちろん史実を「ありのまま」に伝えることが映画の最優先事項だとも限らない。まず第一に映画は映画として面白くなくてはいけない。

 その点に関しても、『ペンタゴン・ペーパーズ』は、カメラワークは軽妙かつ流麗で、映画として映えるシーンもきちんと盛り込んでいる。例えば、交通量の多い道を渡ろうとする歩行者に車がギリギリのところで止まる下りを繰り返す場面や、印刷機を回し始め上階の部屋が揺れる場面を『ジュラシック・パーク』における恐竜来襲の前触れのごとくスピルバーグは撮っている。それと同時に、メリル・ストリープ演じる、ワシントン・ポスト紙の責任者としての苦悩とブレークスルーも描かれることはまさしく70年代に起こった第二次フェミニズム運動と呼応するものであり、その証拠に、主要人物たちが危機を切り抜けた終盤の場面で銀幕にはっきりと映し出されるのは、様々な人種の女性たちの顔ぶれだ。

 力強い女性だが、それでいて大変複雑な境遇にあるのは『アイ、トーニャ』の主人公トーニャ・ハーディングだ。演じるはマーゴット・ロビー。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』におけるファム・ファタール(運命の女/魔性の女)役でその名をとどろかせることになった彼女だが、本作では彼女自身がプロデューサーとしてこのハーディングの役に就いた。今回の映画では、特に誘惑もしないし、大富豪となる男と結婚する訳でもない。むしろ、彼女の活躍を阻むのは、貧困と文字通り暴力的な人間関係だ。1970年代、1980年代の骨太なロックをバックに、痛快に物語が進行する本作は、快活な音楽が暴力を彩る実録もの、つまり『グッドフェローズ』的映画なのだ。

 そして最後はデッドプール2』。A-haの『テイク・オン・ミー』のPVパロディー及び、ミュージカルAnnieの『Tomorrow』が本作中の一番泣ける場面だという事実だけで、いかに本作が観客を笑いと涙を同時に届けようとしているかが分かる。スーパーヒーロー映画疲れなどないかのごとく、次々と新作がハイペースで投入され、結局観客の欲望に飽和状態はないことが事後的に確認されるこのご時世、デッドプールは、メタな視点から自分自身を含む業界そのものにツッコミを入れ続けることにより、必死に「また似たようなスーパーヒーローもの」になることを回避している。そして、彼を演じるライアン・レイノルドが、何度もスーパーヒーローものにおいて成功することを試みつつも失敗し、とうとう本シリーズで大逆転を収めたことがもちろんデッドプールの不死身性と共振することは言うまでもないだろう。ただこれとは全く異なる観点から思っていることはあるので、下半期の投稿にて、本作についてもう少し書くつもりだ。

 最後の最後に残しておいたのがパディントン2』。1月公開の映画だが、このウェルメイドな映画の記憶と印象は今なお薄れることはない。たとえ期待している以上のことが起きなくとも、その一つ一つが丁寧に作られていることでここまで満足できるものができるのか、と何でもあまのじゃくに映画を観てしまう者として感銘を受けた。また、映画の中でも滅多にお目にかかれない、裏のない人々の優しさに心が温かくなった。(下半期につづく)