僕がとりわけ好きな映画評論家の中に柳下毅一郎がいるのですが、彼の以下のツイートを見て僕は『グレイテスト・ショーマン』は是非見ておこうと思いました。
本日公開の『グレイテスト・ショーマン』P・T・バーナムの生涯をモチーフにフリーク達が歌い踊る「史上最大のフリークショウ」ミュージカルです。それを多様性讃歌として歌いあげるアクロバチックぶり。お勧めです! https://t.co/8vJx9uVZt2 via @YouTube
— Kiichiro Yanashita (@kiichiro) 2018年2月16日
柳下氏の言うところの「アクロバチックぶり」とはいったい何なのでしょうか?その質問に応えるような形で今回の議論を進めていこうと思います。
この作品の一番の改変的要素は、上の引用にあるように、フリークショー(作中でサーカスと称されるショー)が持つそもそもの問題がずらされてしまっていることでしょう。本作ではフリークと呼ばれるパフォーマーたちが、下品だとか醜いだとかいう理由で、経済的に比較的裕福な人(中間層と上流階級の人間)たちにより忌避されるということ、つまり彼らが社会に受け入れられていないことが問題視されています。
ただ、実際の歴史的文脈において問題視すべきことは、彼らのことを面白がって消費することなのです。パファーマーたちが受け入れられていないというより、むしろ彼らが商売として成立するほど好奇の目で見られていたことを考えるべきなのに、この映画は最終的にPTバーナムを、雇われた側が励まして、一種の世代交代を果して終わってしまう。恐らく批判として想定できる点を無視して突っ走しているので、ちゃんと諸問題は解決しているかのように思える構成になっているのです。もちろん史実を基にした全ての映画作品が、貫徹して事実に忠実である必要はそんなに個人的に思っています。ただ、自分が見ているものはあくまでもフィクションなのだという、前提は自分の中で持っておかないと、作り手の思うがままにイメージを操られてしまうことにもなりかねません。以上、この作品を観る上で考えておきたい点だと思ったので、簡潔ながら少しばかり言及しました。
でも、「フリークショーを観る観客」を映画という形で観るのは、我々に他なりません。そこもまた考えどころですね。
そういえば、上のツイートで「アクロバティック」という表現が使われているのは、サーカスとかけてんの...?