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バック・トゥ・ザ・フューチャーの「たられば」を考える

 BSプレミアムで今日21:00-23:00の時間帯で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の再放送をやっていたので、何回目かもう覚えてはいないが、つい最後まで見てしまった。

 SFアドベンチャーとして紹介されていた映画(しかもスティーブン・スピルバーグ製作総指揮とクレジットされても、監督のロバート・ゼメキスの名前は紹介文に出したところで知名度に欠けるためか、書かれていなかった。最新作『ザ・ウォーク』が公開中なのは関係なかったのだろうか)だが、この映画はやはり笑える映画であり、名コメディ映画として観るのは全くをもって間違っていないと提言したいところだ。個人的に、映画は、笑えるところはすかさず拾っていく方が楽しいと思う。

 さて、今回何気なく観ていて一番思ったのが、そもそもこの映画は続編を想定していなかったところだ。本作は、ドク・ブラウンが未来から舞い戻り、マーティと彼女のジェニファーに、「未来に戻らなければならない(back to the future)、君たちの子供も大変なことになっている」との旨を伝え、今度は空飛ぶデロリアンで2015年へと旅立つシーンで幕を閉じる。

 しかし、この続きを想定していなかったのならば、タイムトラベル物の3部作として名高い本作が強調するのは、両親の口からは絶対聞き出せなかったであろう彼らのヒストリーを暴いていく物語であり、”奇妙な”(コメディタッチで仕上げないとなかなか大変な話になる)青春ものでもあるという点だ。公民権運動も、スケートボードも、黒人と白人音楽が融合して誕生したロックンロールも、ティーンの白人が生み出したものであるという、歴史改変的な要素を指摘する評論家は少なくないが、よく考えてみれば、1985年に生きるマーティの両親の語る過去はウソばかりで、このことこそ本作の描く1955年が映画の描きたいフィフティーズであったことを皮肉にも物語っている、というのは言い過ぎだろうか。

 また、2作目も3作目も作られて本当に良かったと思う次第なのだが、それでも1作で完結していたと考えるとなると、未来は本当に「未だ来る」存在で、マーティとジェニファーの子供(冷静に考えてみると、もう結婚していて子供もいるという話にそこまで二人が何とも思っていない?もうちょっと喜ぶなりしてもいい気はするが)がトラブルメイカーになっているのか、分からないまま終わるはずだったのだ。それは、本作の描く、親子関係が逆転することで明らかになる父子、母子の類似点・相違点が、そのまま子供たちに引き継がれていくことすら暗示しているのかもしれない。続編が実際存在する以上、これらは妄想にしか過ぎないのだが、考えの枠組みを本作のみに限定してやると、かなりBTTFの世界はトリッキーな青春もの、両親の過去暴露ものとしてまた違う見方が出来るのかもしれない。