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アメリカンに映画を観る!

幅広く、新旧問わず洋画のいいとこ取り。記事のリクエスト等ございましたら気軽にコメントして下さい

『真夜中のカーボーイ』とウルトラマンの関係(?)


Midnight Cowboy - Trailer

 本作品『真夜中のカーボーイ』(カウボーイではなく、敢えてカーボーイらしい)は、成人映画として初めてアカデミー賞作品賞に輝いた、アメリカン・ニューシネマの一連の映画における一本である。これは、南部から東部へと移った「カウボーイ」気取りの青年が、都市の残酷さに飲み込まれてしまう物語だと言えよう(ただし、失ったのは彼自身の命ではなく、友人の命である)。ジゴロとそのマネージャー(ポン引き)というホモ・ソーシャル的な関係を描いたバディものとして観ることも大いに可能だろう。今回はそういった主なテーマを踏まえつつ、散在する間テクスト性に着目し、如何に映画全体との関係について論じていきたい。

 まずは、主題歌の”Everybody’s Talking”から考えていきたい。この曲自体はカバー曲で、映画用にネルソンというアーティストが歌った(彼の代表曲は”Without You”だが、これもカバーである)。元はフォークソングでその歌詞からは主に二つのテーマが伺える。一つは語り手が確固たる意志を持つために、皆のうわさになっていても、彼らの意見が耳に入ってこないという、アメリカン・ドリームを追求する個人だ。もう一つは(先述した内容と重複するが)、とにもかくにも自らの故郷から飛び出し、「ここではないどこか」を目指すという旅のイメージである。これは主人公の境遇と強く共鳴するものであり、このどこか切ない歌声は、田舎から一人都会へ出てきたものの、やはり”lonesome cowboy wannabe”として生きる他ない主人公の行方を物語っていると読み取ることも出来よう。

 カウボーイのイメージから言えば、冒頭でテキサス・カウボーイの服装に身をまとった主人公の背景に映るのは、閉鎖された映画館と、John Wayne主演作のタイトルである(有力なのはThe Alamosという作品のようだ)。ただその文字はかなり欠けていて、John Wayneという西部劇のスターの時代が終焉したことを物語っているようだ。

(http://exquisitelyboredinnacogdoches.blogspot.jp/2006/10/midnight-cowboy-1969-locations.html)

後の展開を考えると、既にハスラーとして都会での成功を信じていた主人公ジョー・バックの理想は、既に時代遅れだったということを暗示している(そもそもアメリカン・ニューシネマが、現実から乖離してしまったハリウッド映画を時代遅れなものとしてアップデートさせる結果をもたらした)。

 次に考えてみたいのが、ウルトラマンのモチーフである。日本語版のウィキペディアを参照してみると、全体の情報量は比較的少ないものの、トリビアとしてウルトラマンの怪獣が登場することについて言及されている。ジョーが、年配の女性と男娼として関係を持つ場面では、彼らの身体が偶然にもテレビのスイッチが付き、チャンネルがザッピングしていく。ニュースやハンフリー・ボガート主演作など実に様々な番組がモンタージュ化されている訳だが、その中に一瞬だけ登場するのが、ウルトラマンのエピソードの一片である。例えば火を噴く怪獣を性的メタファーとして捉えるという見解も見受けられたが、それに加えて南部はテキサス州から来た、ジョーはニューヨークの中では、洗練されていない野蛮なカウボーイ(彼のような服装は、多種多様な人間のいるニューヨークですらかなり目立っている)であり、それは宇宙のどこからかやってきて、最終的には排除される怪獣の性質とある種相似している。

 加えて、料金をもらうどころか、その女性からタクシー代と偽って20ドルを巻き上げられてしまうジョーが窓から臨むのは、ビルのMONYという大文字である。自分の屈強な肉体一つで一攫千金を狙ってやろうという野望は、瓦解していく訳である。アメリカの思想史において重要な、「反知性主義」的、つまりエスタブリッシュメントのもっているような教養はないものの、肉体性を重要視するジョーは、その賢さがないがために、窓から見えるマネーからますます遠ざかっていく訳である。ホームレスになってしまったジョーには、無機質な金ではなく、貴重な友人を得る訳であるが、その友人の望みをかなえる(フロリダへ行くこと)ために、彼の肉体性を暴力のために用いることになってしまう。陰湿で暗がりのニューヨークから、「光の国」(ウルトラマンの主題歌の一節である)フロリダへと無事に行くことが出来たのだが、友人は車内で病死する。やはり肉体一つでがむしゃらに努力するだけではアメリカン・ドリームは達成できないという絶望的かつアメリカン・ニューシネマにおいては定式とも言えるエンディングを迎える訳である。