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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『ナイトクローラー』とメディア

 念願の『ナイトクローラー』を観てきた。驚くべきことでもないが、随分遅い日本での上映だ。

 あらすじはジェイク・ギレンホール演じる若者ルー・ブルームが、職を求めて、ロスで犯罪現場の映像をいち早く自分で撮影することになるが、より過激な映像、視聴者の要望に応えられる映像を求めて、現実と虚像との境界をますます切り崩していくようになる、というもの。

 ジェイク・ギレンホール主演作を全て観た訳ではないのだが、彼をアメリカの闇に投げ込んでしまえば、大抵の場合いい映画が出来ると個人的に盲信している。例えば、真実を過度に追いかけるあまり、家族を失うジャーナリストを描いた『ゾディアック』や、これまた真犯人を超法規的手段でもって(つまり、疑わしき者をひたすら拷問する)見つけ出そうとする優しいパパ(ヒュー・ジャックマン)の話である『プリズナーズ』(ギレンホールは警察官)が挙げられる。

 本作もなかなか見ごたえのある映画だ。ハリウッド映画ではおなじみの「自己批判モノ」である(それについては後述する)。この映画が徹底的に解剖してみせるのは、視聴率を上げるべく、奮闘する地方のテレビニュース局だ。実際にロサンゼルスの犯罪率は低下傾向にある(と主人公が言っている)のにもかかわらず、中流白人社会で勃発する犯罪を集中的に取り上げようとするそのテレビ局の態度は、ジャーナリズムでよくいう「真実の追究」ではなく、「物語の創作」である。ただ、それが視聴率アップに繋がるのだから、彼らは必死にジグソーパズルのピースを集めてきて、ありもしないパズルを完成させようとする。

 モラルの問題には無関心の主人公ルーにとっては、願ってもない状況である。警察の無線を一日中聞いて、研究しここぞというところで、現場に向かい、瀕死の重症を負った人々、あるいは虐殺された家族を表情一つ変えずカメラの映像に残す。そこで、エスカレートする彼の行動はどこで終着点を見出すのか?と最後まで目が話せなかった。2時間弱の尺でコンパクトにまとまった映画だった。

 先ほど「自己批判モノ」といったが、恣意的かつ受け手の求めるような形で一種の物語を提供するのは、映画も同じことである。テレビ局の醜態をさらすこと(それがどこまで事実を忠実に描いているかどうかは別問題だ)は、ハリウッド界の、直視して欲しくない現実を、観客に意識させてしまうことに成りかねない。傑作『トゥルーマン・ショー』でも、ジムキャリー演じる主人公の人生そのものが、壮大なリアリティショーだったという設定が衝撃的だったが、これまた、観客の求めるものを強引に実現してしまうテレビ側の態度を批判することが、映画を批判すること(例えばドキュメンタリー映画もヤラセだ、というありきたりな指摘)を誘発し得る。

 一応説明するが、個人的には映画にもテレビにも現実を忠実に描いてもらおうなどと、素直に期待はしていない。「客観的な報道」など、矛盾した言葉だとすら思えてしまう。本作が示すように、どの事故現場に行って、どのようなアングルで撮って、それをどのように編集して、どの順番でストーリー(報道)を用意するかで受け手の印象は大きく変わってしまう。客観的であろうと努力は出来るが、主観性を完全に排除することは不可能な話だ。(そらそうだろと思う方もいるだろうが、「偏向報道だ」と非難の声を上げてしまう人々はそのことが一応理解は出来ていても、意見形成の際はそこが抜け落ちてしまっていたりする訳だ)

 映画におけるカリフォルニア州だって、犯罪の巣窟として描かれる(ギレンホール主演の『エンド・オブ・ウォッチ』が好例)と同時に、常夏の楽しい町として描かれていることだってある(ピクサー映画等)。どこに目をやるかによって随分、スクリーンに映し出される製品は変わってくる。今回の『ナイトクローラー』は、LAの闇をかっぽじりまくるにーちゃんの話である。色んな側面からまたLA映画を観てみるのも面白いかもしれない。