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『インサイド・ヘッド』Inside Headを観て(レビュー)

 遅ればせながら、ピクサーの最新作『インサイド・ヘッド』を字幕版にて鑑賞。この夏休みの新作ラッシュによって、吹き替え版ならまだしも、字幕版がほとんど上映されていないことに気づいて、急いで観て来た。

 

ykondo57.hatenablog.com

 

 前評判どおり、傑作だった。『マッドマックス4』は今年のダントツ一位確定だが、今年ベストの一本に必ず入るであろう作品だった。批評家も声を揃えて絶賛したのもよく分かる。ピクサーの一連作品に、スカ映画がほとんどないのは真面目に考えてみて非常に薄ら気味悪く感じてしまいかねないほどだ笑

 (公開してから、数週間経過しているので、エンディングを仄めかすような本文になっています)

  この作品は、ヨロコビとカナシミとのせめぎ合いが主軸となっているのは自明だろう(ただ、厳密に言えばそれはヨロコビの一人相撲に限りなく近い)。

 ”ご主人様”のライリーが一生幸せでいられることを願うヨロコビだが、結構それゆえに空回りしているところがあり、その一方でマイナス思考の塊であるカナシミの方が周りの事柄によく目がいっている。冒頭の、黄色い(喜び)の球が、突如青色(悲しみ)へと変化し戻らなくなるというトラブルも、カナシミがなんらかの「異変」を察知出来たから故のことだ。この二人が結束しないと話は収斂しないのは冒頭のシークエンスを見ても、一目瞭然である。

 主人公は一応?ライリーである。本当はヨロコビなのだろうが、言わずもがな、ライリーなしでは話が成立しない。しかし、『トイ・ストーリー』の少年アンディのごとく、彼女は多くを語らない。その代わりに過剰なほどにマシンガントークを展開するのが、ヨロコビを初めとする諸感情である。(ちなみに、ヨロコビに有名コメディエンヌのエイミー・ポーラーを起用したのは、ディズニー映画が強く求めるコメディ性を十分に表現出来るからだろう。そこは日本の声優起用のメソッドと一線を画すところだ)

 よくよく考えてみると、プロット自体は、11歳の多感な女の子が、突然田舎から引っ越すこととなり、昔の地元が恋しくなって家出を試みて・・・という、”それだけ”の話である。だが、あそこまで壮大な冒険がバックストーリーとして目まぐるしく展開していく点にこの作品の魅力がある。各感情の役割の棲み分けも見事だし、「昔11歳だった」人なら分かる「あるあるネタ」に基づくジョークの連発にも大いに笑える(『チャイナタウン』へのオマージュまであったのには驚いたが、ピクサー作品では大人しか分からないネタをとりあえず放り込むことは日常茶飯事らしい)。そして、そういったジョークや、”大げさ”な冒険という要素こそがライリーの物語を語る上で重要なのだ

 というのも、11歳の子どもにとって、あらゆることは未だに新しく(そしてこの新しさは底なしの恐怖へと繋がりかねない)、また相対化出来るものではない。

(多分、今の我々が様々な事柄に対応できるようになるのは、子どものときよりも感情面で成長していくからというよりも、むしろ相対化する対象(テストで悪い点をとっても、あの時のように大怪我するよりマシだろう等)が多いだけなのかもしれない)

 ということは、客観視さえすれば大したことのないことでも、本人からすれば、一大事なのであって、それゆえにあれだけのドラマが(確固たる価値観と思われていた、家族や正直が音を立てて崩れ落ちていく)頭の中inside headで展開したとしても決して不自然なことではない。

 最後に示されるのが、「感情の折衷」である。そうやって人間は単純化出来ないものを抱えていくし、また同時に「忘れない」と前進は見込めない。想像上の友だち、イマジナリーフレンドとも、離別しなければならない。ヨロコビとカナシミとは表裏一体であり、その他の感情がミックスした形でしか、重要な思い出は残っていかないのだ。

 ただ、この11歳という年齢設定もなかなか憎い。あれだけのドラマがあったのにも関わらず、よく考えてみれば、ライリーはまだ思春期の手前なのだ。Puberty(思春期)のボタンの存在の重要性に無知な中枢の感情たちはえらい目に遭うだろう。この全てが解決していない、いや、本当の難関は始まってすらないというエンディングには共感を覚えるし、妙に説得されてしまう。

 前作『ベイマックス』のような、可視化されたマクロなアクションとは対照的に、脳内(ポイズンベリーではない)のミクロな見えないドラマを扱ったこの作品。ピクサー20周年作品ということで『トイストーリー』のように、大人への階段を上っていく難しさを、その子どものガーディアンが本人の知らないところで代わりに受難していく(重い表現だが実際そういう話なのだ)話を扱ったのだろうが、圧巻だったのが、エンドロールだった。大意だけ訳すと、「この映画を我々の子どもたちに捧げる。頼むから、大きくならないでおくれ」

 これはピクサー映画を手がける親たちの成長への葛藤(自分に対して、そして彼らの子どもたちに対しても)を描いた映画でもあるといえよう。ただ、彼らの生み出したピクサーという子どもは、もう成人してしまった。そんな中、その両親たちはどのような更なる成長を見せてくれるのだろうか、非常に楽しみなところだ。