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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

バグダッド・カフェに「メリー・ポピンズ」

 今回の考察対象の『バグダッド・カフェ』は1987年の西ドイツ映画で、当時のアメリカでもヒットした、日本でいうミニ・シアター系の映画だ。完全版でも100分強というコンパクトな尺で、泣き笑いしながら観る事の出来る映画になっていると言える。

 

(以下ネタバレありです)

 

 ジャスミンの「メリーポピンズ性」について論じておきたい。主人公のジャスミンは、全身黒い婦人服を身にまとい、冒頭登場する。その容貌は、メリーポピンズを彷彿させる。この映画の設定は恐らく80年代当時そのままなので、あのような服装の婦人はむしろ珍しいと考えられる。加えて、彼女は、身の周りの抜本的な掃除を始め、ブレンダのオフィスも見違えるかのように綺麗になる(当初彼女はそれに逆上するのだが)。そして、いわゆる乳母(nanny)として、子どもの面倒まで見るようになる。例えば、ブレンダの娘は、極めて外向的な女の子で、派手な格好をして青春を異性のグループとともに謳歌することばかり考えていて、店の経営うんぬんにとりわけ興味を示そうとしない。そんな彼女に、ブレンダはただお金を貸してあげるか、あるいはこっぴどく叱り付けるかという二極的な対応しかしない。その一方でジャスミンは、彼女に寄り添い、彼女の友だちになる。ブレンダの息子に対しても、耳障りとしか思われていないバッハの平均律の調べに、目をつぶり、その音楽に浸る。彼の音楽の理解者が訪れたと彼は歓喜するのだ(ジャスミンがバッハの祖国、ドイツであることにも納得がいった様子が描写されている)。こうして、メリーポピンズが、バンク家の子どもたちに対して、擬似的母となるように、ジャスミンも母親となる。

 極めつけは、ジャスミンのマジックである。メリーポピンズは、文字通り魔法で子どもたちを魅了させ、彼らを仕付けるに限らず、中年の危機に陥った、バンクス家の主の考え方まで変えてしまう。そして、その変化は最終的に家族全体に幸福をもたらすのだ(少なくとも表面上は)。それと同様に、ジャスミンは、マジックでもって辺境地であるバグダッドカフェに、確固たる見世物をもたらす。そして、それは多くの常連客を生み出し、最終的にはずっと傍観者としてのみ作中に登場していた夫とブレンダを結びつける。ジャスミンは、単なる流れ者ではなく、一種の「聖なる存在」として、大きな役割を果たすのだ。

 

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