(ネタバレ全開でいきますので、ご了承下さい)
極めて奇妙な映画であることに、この『バードマン』を見終わった人が激しく反論することは、そこまで珍しくないように思う。よく分からぬまま、何となくの推測でこの物語を解釈したところで、この映画の面白さは少しも減ることはないと思うが、個人的に気になる点がかなりあったので、考えてみた。
おさらいがてらの粗筋は、シネマトゥデイより以下の通り。
かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡(ふうび)した俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。しかし、降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め…
そもそも、擬似1カットで撮られたと称されるこの映画だが、その最初のシーンは、その1カットに属していない。何やらくすんだ空から、隕石のような物体が落ちているところから始まる・・・と思いきや、主人公リーガンが白ブリーフ一枚で、浮遊して座禅を組んでいる場面が映し出される。冒頭から、謎が提示される。
ただ、これに対する答えを正攻法的に見てみると、これは主人公の妄想である(”ストレスによる幻聴”と本人も言っている)と読むのが妥当だろう。
まず、超能力を使って、自分の楽屋を滅茶苦茶にしている場面があるが、プロデューサー兼弁護士のジェイク(まさかハングオーバーシリーズであそこまで愚行の数々を続けた彼がここまで生真面目な人間を演じるとは!)が部屋に入ってくると、リーガンは自分の手で周りにあるものを壊し続けている。超能力が出てくるシーンは、原則彼しかいない場面に限定されており、他者の視点が入るとそれは極めて説明のいくシーンに変貌を遂げる。
また、NYの町並みを飛翔するシーンも非常に感動的なのだが、誰も空飛ぶ彼の姿を見上げていないし、地上に舞い戻るやいなや、タクシーの運転手が”乗り逃げ!”と劇場へ駆け込む姿が伺える。結局、普通にビルの屋上まで行って、タクシーで戻ってきたのか?
後編では、数々の引用の意味から、結末について考えてます。