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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

『冷たい熱帯魚』~”狂気”は”普通”の人間にある!?

 ブログのタイトルとは裏腹に、またもや邦画・・・笑

 この映画を見たのは、大分前なのだが、その衝撃は今でもまだ自分の中に克明に残っている。

 小さな熱帯魚店を経営している、社本(吹越満)は娘の反抗的な態度にも(死別した妻の間に出来た娘)口が出せない気の弱い男。そんなある日、娘が万引きしたという電話が入る。しかし幸運にも、村田(でんでん)という、大型熱帯魚店を経営する男の元で住み込みで働くことになる。

 しかし、どうも村田は熱帯魚販売の裏で怪しいビジネスを展開していることが判明。そこから社本の人生の歯車は大きく乱れていく・・・・

 園子温監督作だけあって、「性と暴力」が惜しみなく前面に出ている一本であると同時に、我々の社会通念を大きく揺らがせてくる映画でもあると個人的に考えている。

(以下ネタバレ注意!)

善良な一小市民であるように思えた社本の行動は相当衝撃的なものだと思う。

「彼が狂気に走るなんてーーー」と”通常”であれば言えてしまうことだろう。

ただ、通常や普通、あるいはそれと対をなす概念、狂気とは何だ?

 

この映画で分かるのは、

「究極の狂気は普通の人間にもある」ということだ。

 

 M.フーコーという現代思想界のスーパースターとよばれる哲学者がフランスにいたのだが、彼は、精神分析というもの(大雑把にいえば、人の夢や、連想するものから、無意識に潜む欲望といったものを暴いていく領域のことを指す)は、人々をカテゴライズすることによって、「狂気(あるいはそれを生じされる病的なもの)」というものをいわば人為的に生み出していると主張した。その振り分けから「漏れた」人間は「普通」ということになる。

 この主張に基づくと、「狂気」というものは、生まれた瞬間から持つ属性ではなく、社会環境の判断次第なのだ。(だから時代によって、狂人が普通の人間扱いになるし、その逆も生まれる)

 

 この映画において、社本は至って「普通」の人間であるように思えた。しかし、ラストにかけて大爆発を起こす。要は、現代社会の評価基準だけでは、彼の内面に見出しきれなかったものがたしかにあったということなのだ。

 こいつはおかしいけど、こいつは大丈夫 --- そのように、安易に判断できるほど社会基準たるものは完全な訳ではないし、そこまで人間は単純ではない。それが痛いほど伝わってくる映画である。早急で安直なカテゴライズでは分からないことだってあるということなのだ。

 

 主人公の場合、でんでん演じる村田に彼の心の奥にあった何か鬱屈したものを見破られていたのだろう。娘は自分のいう事に耳を傾けてくれない。そっけない妻の態度。(冷凍食品のオンパレードにはつくづく飽き飽きしていただろうし)村田に狂気を植え付けれられたというのは、少し不正確になるだろう。彼のネガティブなエネルギーを村田に嗅ぎ取られ、そして操作されて、最終的には村田自身も手に負えないほどまでに増幅してしまったのだ。

 分かりやすいことに、主人公の「爆発の瞬間」は彼の眼鏡が外されたときだ。

 アニメでもよくあることだが、これで、完全にたがが外れたということだろう。

 他のシンボルでいえば、彼の白シャツである。

 彼は、いつも黒い服装だったのにもかかわらず、急に白シャツになる。

 通常であれば、黒が悪・暴力を表しそうなものだが、今回ではそれが逆転している。その逆転がむしろ彼の凶暴性・狂気性を際立て、見るものに背筋が凍るほどの戦慄を与えることになる。

 

 プラネタリウムで宇宙、そして地球のことについて思いを馳せるのを好んでいた社本だが、彼が存在していた地球を、ミクロレベルで見てみると、意味もない殺し合いの連続が展開していたのだ。

 

 

 

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