昨日、チョコレートドーナツを鑑賞。
火曜日の10時台の上映だったが、梅田の某劇場は半分くらい席が埋まっていた。東京では立ち見客もでたとかで、たしかにこの映画はミニシアター系のスマッシュヒットであるのは感じ取れた。
”1979年カリフォルニア、歌手を目指しているショーダンサーのルディ(アラン・カミング)と弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)はゲイカップル。 母親に見捨てられたダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)と出会った二人は彼を保護し、一緒に暮らすうちに家族のような愛情が芽生えていく。 しかし、ルディとポールがゲイカップルだということで法律と世間の偏見に阻まれ、マルコと引き離されてしまう”(シネマトゥデイより)
感想としては、たしかに見る価値のある映画だとは思った。挿入曲も良い選び方をしていたと思うし、なによりも最後の"I Shall be Released" (Bob Dylan作曲:”私は解放される”)には本当に心を動かされる。論理的に導かれるも、その前提に不条理を感じ得ない結末が分かるとその意味が理解していただけるのではないかと思う。
ただ、この映画は単に「泣けた」とか「感動した」とかいったシンプルな形容で終わられていいものだとは、個人的に思わない。
たしかに、映画を見終わったあとに、少し涙ぐんでいる人たちを見かけて、感動的な映画を見て容易に泣かない自分が悲しいのかと若干思った。
しかしながら、ここで注目すべきは「男女間の悲哀」のような個人的な問題(個人的なストーリではあるが)ではなく、高く聳え立つ「社会」という障壁なのだ。
様々な人種が住んでいるカルフォルニア州とは言えど、そして、たった30年前とは言えど、この映画が描く社会の風当たりは強い。同性愛者の擁護が、自らの社会的地位にとってリスクになる社会である(作中の黒人弁護士など)。同性愛者差別は、「差別ではなく現実」というポールの一言、これは今でも十分言えることだ。(今でも十分言えることという主張自体が陳腐なのは分かるが)
結局、これは単に「泣ける」映画である以上に、「怒りを感じえない」あるいは「不条理で空しい」映画なのかもしれない。
単なる一映画として消費して終わり、とするのではなく、今後も思考を深めるためのきっかけとなることがベストなことだと言えよう。