エクストリーム・ジョブ(#1)
2019年回顧 (アメリカン・アニマルズ、さらば愛しのアウトローなど)
この投稿で触れる映画の条件としては前書きに書いた通り。
まずは「ドキュメンタリー的」な映画について。当事者たちの語りに対して別人が演じた映像を使うことは決して珍しくないが、その比重が逆転するとき、つまり実話を元にした劇映画の本編にドキュメンタリー的断片が何度も挿入されるとき、全く異なる効果が生まれる。『アメリカン・アニマルズ』はまさしくその手法を巧く使った映画で、その奇妙な効果はかなり印象的だと思う。
とはいえど、この映画の魅力とは単に形式の斬新さに留まらず、強盗もの、というアメリカ犯罪映画の中でも多く見られるジャンルに該当していながら、その定型から極めて遠いという点だ。大抵の場合、厳重な警備など「ヤマ」の難しさにサスペンスが生まれるだが、本作の場合、無能な大学生たちが穴だらけの計画を強行しようとするところにサスペンスが発生してしまう。この「だらしのなさ」のせいで全く観客は安心して映画を観ることが出来ないところが面白い。
さらに彼らには大した動機がない点も興味深い。たしかに彼らの中には家庭の事情があり、現状を脱却したい理由も皆無ではないのだが、あえて犯罪に手を染めてまで乗り越えたい実存的問題なのかはかなり疑問だ。そんな「ここではないどこかへ」行くこと、そして「違う自分」を渇望する彼らの辿る末路を我々は見届けてしまうことになる。しかし、その過程で実際何が起こったのか、この映画は全ての真実を提示している訳ではない。
スパイク・リー監督『ブラッククランズマン』は、実話をベースにしながらもかなりの脚色を加えた作品で、黒人警察官が電話という視覚情報を欠いたデバイスを用いることで白人至上主義の秘密結社KKKに「潜入」するという荒唐無稽な物語だ。冒頭の『風とともに去りぬ』、そして末尾のヴァージニア州シャーロッツビルでの事件の映像を一見すれば、リー監督の人種差別に関する意図は明白だ。これは1989年にリー監督が『ドゥ・ザ・ライト・シング』にて訴えた現状とさして変わりはない。むしろその変化の無さに愕然とするほかない。しかしながら、映画そのものはエンターテインメントとして見せようとする彼の気概がにじみ出ている。素性がばれるかもしれないというサスペンスや、一部の白人を戯画的に描くことから生まれるユーモアなど、むしろ娯楽的な要素は『グリーンブック』よりもこちらの方が強いように思う。
ここで触れる映画に順位はつけていないが、「2019年の一本」として選びたいのは『さらば愛しのアウトロー』(原題は"The Old Man and the Gun"、『老人と銃』と訳すのが正しい)だ。映画秘宝の蓮實重彦インタビューで監督デイビッド・ロウリーの存在を知り、過去作『セインツ』『ア・ゴースト・ストーリー』を予習してから本作を観たが、90分未満という上映時間の中で豊かに展開するドラマに感激した。ロバート・レッドフォードの過去作をつなげ合わせて、主人公の脱獄歴のモンタージュ映像を作ってしまう器用さには驚いたものの、冒頭の逃亡シーンの味わい深さや非暴力的な銀行強盗の見せ方、そしてレッドフォードとシシー・スペイシクの老カップルのチャーミングな関係性がとにかく良いと思った。
あれほどの壮大なラブストーリーを駆け抜けるように語ってしまった『Cold War』は観ていて本当に爽快だった。それでいてほぼノンストップで、東欧の民謡音楽から、共産圏のプロパガンダ曲やフランスのジャズ、そして最初期のロックンロールまで、多岐に渡る音楽が流れ続ける。ヨーロッパのアート系、しかも白黒映画だと言われると少し凄んでしまう人にこそ見てほしい傑作。
オバマ大統領も18年のベスト映画の一本に入れていた『ブラインドスポッティング』も忘れがたい一本だった。普段から話している言葉が自然にラップのリリックへと変容していく世界において、自分たちの人種的「盲点」(blind spot)により、他愛のない振る舞いが知らぬ間に人々の間に大きな溝を生んでいく。現状打破は手の中にある拳銃ではなく、口から機関銃のごとく即興で放たれる魂の言葉でしか成しえない。
最後に書いておきたい2作『ブロッカーズ』『ある女流作家の罪と罰』(原題は"Can You Ever Forgive Me?")は劇場未公開作だった。前者はアメリカでスマッシュヒットを記録したコメディ映画で、後者はアカデミー賞候補作のドラマだったのだが。
特に前者の前評判を聞いて観ることを楽しみにしていたのだが、結局未公開のまま、突然アマゾンプライムで配信されていた。最近はありがちな、R指定の青春コメディと言ったところだが、斬新な点は、主要人物が三人の女子高生及びその親たちであることだ。抱腹絶倒の展開とそのバカバカしさは従来の2010年代コメディそのままではあるが、今までの「野郎どものバカ騒ぎ」路線を極めて面白く、楽しく、そして正しく改新する画期的な作品だった。
"Can You Ever Forgive Me?"は本稿に挙げた中でも最も人に薦めたい一本で、その意外な話に引き込まれることはもちろん、主人公とその悪友の関係性も素晴らしいし、誰も見捨てない物語の丁寧さが胸を打つ。
2019年に見た旧作は、1940-50年代のフィルム・ノワール系が多かったように思う。2020年はスクリューボール・コメディ映画をもう少しきちんと見てみたい。
2019年回顧 まえがきに代えて
去年と似たような形式で2019年に観た新作映画について、何本かの記事に分けて書いていきたいと思います。新作は必ずしも劇場で見ていない配信作やDVDスルーのものも含まれています。ずっと待っていたのに気づいたら未公開作としてソフト化されていたり、アマゾンプライムに上がっていたりしていた作品もあったことがその主な理由です。
また、今回本文で取り上げる映画は「続編」「リブート」「アメコミ」「上映時間が2時間半超」以外の映画にしました。このまえがきはその先に省いてしまった映画について。この条件だと、例えばですが、『アナと雪の女王2』『アラジン』『スターウォーズ エピソード9』『ジョン・ウィック3』『ジョーカー』『ライオン・キング』『アベンジャーズ エンドゲーム』『アイリッシュマン』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』などは除かれます。
面白くない、出来が悪い、マンネリだ、という理由というよりは、たまには「前提知識なしに、飽きずに楽しめた映画」にフォーカスしてみたかったからです。幕開けとともに初めて登場人物を知ることになる条件下で、2時間ないし1時間半すら超過せずに物語を無理なく終えることはそう簡単にできることではないし、実際その成功例に立ち会えたときの喜びは何にも代えがたいものがあります。これは単に、映画はたくさん観たいものの、観始めるやいなや結末を待ち遠しく思ってしまう矛盾した自分の卑しさの表れでもあるのですが、こちらの関心をハイジャックしてそのまま離さないような魅力ある映画を何本かここに記録できればと思います。
『アイリッシュマン』短評
端的に言えば、期待以上の出来だったし、今年のベスト級の映画だ。この映画は、スコセッシ監督が生み出してきた一連のギャング映画に一つの重厚感ある終焉をもたらした作品だと思うのだが、それはもちろん既に多くの映画評で指摘されていることだ。
前半の軽妙な『グッドフェローズ』的な展開の仕方を見ていると、ラスト1時間の展開との落差に驚かされると同時に納得もするだろう。ここにスコセッシの変化し続ける監督魂のようなものを感じた。得意なギャングものは何本でも撮れるだろうが、今までのようなものを作り続ける気はさらさらないことが伺える。たとえば『ミーンストリート』や『グッドフェローズ』から、『カジノ』あるいは「金融界のヤクザ」ものである『ウルフ・オブ・ウォールストリート』に行っても、また『グッドフェローズ』的テンプレートに戻るだけのような真似はしなかった訳だ。
補遺:
『ジョーカー』の監督、トッド・フィリップス(忘れてはならないが、そもそも彼がこの映画を撮れるようになったのは『ハングオーバー』シリーズで大成功を収めたからだ)が、スコセッシ作品を崇拝していることは既に多くの場所で取り上げられているだろう。それゆえ『ジョーカー』はスコセッシの『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』の多大なる影響下にある。フィリップスが70年代、80年代のスコセッシ過去作に拘っている間に、当の本人は自分の過去作を踏み台にして化け物のような作品を作り上げた。そもそも、スコセッシが「アメコミ映画はシネマではない」といった発言をして、メディアは大騒ぎしたい訳だが(正直マーベル映画に出ている俳優たちにこの発言についてコメントを求めるのはもういいのでは。真面目に憤っている人間は特にいないと思う)、間違ってもこれを新旧世代の対立として見てはならない。スコセッシほどの巨匠がNetflix用に映画を作っている事実、そしてその映画に大幅なCGによる若返り加工を施された俳優たちが演技している事実を考慮すれば、2019年現在、彼ほど時代の潮流に流されずに最前線で映画を撮り続けている人間も少ないのではないか。そんな彼が大ヒット中のアメコミ映画に大きな影響を与えたといえるならば、彼の活躍ぶりはなお注目すべきではないか。
10月の海外ポッドキャスト
普段からラジオ・ポッドキャストを聴くことが多い。基本、映画を観ている時間よりポッドキャストを聴いている時間の方がはるかに長いと思う。10月に聞いたポッドキャストでは、例えば有名紙New York TimesのStill Processing(映画や音楽など、ポップカルチャーを二人の専属ライターが語る)の最新シーズンや1619(アメリカの奴隷制が始まったとされる年から、今のアメリカを見直す、というプロジェクトの一環)が挙げられる。どちらも聞きごたえはかなりある。
NPR(アメリカの公共放送局)のRough Translation (アメリカ人の知らない世界の諸事情を皆に分かるように"翻訳"しようとするもの)での、在日米軍の基地に暮らすある子どもの回はすごく印象に残っている。6歳児の彼は、基地での閉ざされた生活から変化を求めて、日本語が全く出来ないにもかかわらず、日本の現地校に通うことを決意する。
ただ、今月で群を抜いて多くの人々を魅了している新番組は、人気ポッドキャストRadiolabの司会による、ソロ・プロジェクト Dolly Parton's Americaだ。ドリー・パートンと言えば、ディズニーのヒット番組ハンナ・モンタナで登場する主人公の名付け親 だったり、映画 9 to 5に主演を務めた姿を想起する人もいるかもしれない。多くの人から愛されている彼女だが(雑に言ってしまえば右の人間にも左の人間にも広く好かれているデータがあるらしい)、どうしてもジョークの対象になりがちで、あまり真剣にシンガーソングライターとして彼女の作品を検証してくることはあまりなかったらしい。そこで、彼女のインタビューを織り交ぜつつ一曲ずつ深堀りしていくことで、我々の意識が及ばぬアメリカの一面が見えてくるのだ。
例えば、本番組は「明らかに自身の歌詞はフェミニズム的でありながら、フェミニストと言われることを本人は嫌がるのはなぜか」「大御所の男性カントリー歌手のアシスタントとして本人の番組に出演することになったが、以後どういったドラマが展開したのか」「まだ離れてもいない故郷を懐かしんでいる歌の真意とは」といった質問を提起し、丁寧に答えていく。こんな紹介文より実際の内容の方がはるかに面白いので興味のある方は是非ご一聴下さい。
9月の鑑賞日記
某日
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。無限のフォロワーを生み出したタランティーノ監督の本作には、変わりゆく1960年代のハリウッドへの愛が存分に注がれている。
暴力を凌駕する別の暴力により歴史を改変してしまうタランティーノのパターンはもはやお家芸だが、やはりそれを踏襲する上で、その暴力を誰にどのように向けるかは改めて考えなければいけないと思っていた。火炎放射器は一体誰に向けられるべきなんだろうか。ところで、燃費のひどいアメ車がラジオからの音楽を大音量で流しながら猛スピードで走るところを車の後部座席からじっくり見せる場面が何度もあったことに感動した。
映画絡みで言うと、The Ringerという海外のサイトで1990年代のアメリカコメディ映画を振り返る連載("Comedy in the '90s")が8月から始まっていて、毎回読んでいるのだが、これがすごぶる面白さ。今まで点としてしか把握できていなかった90年代のコメディ映画を自分の中でようやく(何本かの)線として理解できてきた感がある。
某日
『アド・アストラ』。男らしさの解体というジェームス・グレイの説明は少し都合の良過ぎる説明だと思う。自らの弱さを前面に出すのはたしかにマッチョな考え方と対極的な概念なのだが、それを以前のブラピは果たして本当にやってこなかったのだろうか。
しかしそれにしても、素晴らしい年の重ね方を見せてくれた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のブラッド・ピットとはかなり違っていたのには驚きを隠せなかった。
目の下のクマが際立てる彼の悲しみに満ちた表情は印象的で、海王星まで孤独な旅を強いられるのはこの表情を見せるためだったのか、とまで思うが、その孤独はどちらかというと、自分の心の声としてはっきり喋ってしまっており、やや説明的な話の運び方にはあまりしっくりこなかった。
アメリカの白人男性が、父親無き/亡きまま大人になるが、最終的には自分の父親との関係と向き合わなければならない、というパターンは、アメリカにおける物語の世界(小説や映画など)ではよくあることだが、宇宙の果てまで行ってもアメリカ人の旅路はロード・ムービーになりえるのだなと思った。
9月はブラピに始まり、ブラピに終わった。超マッチョなブラピと、繊細なブラピの二面性を見られたのはよかった。いずれにせよ、身体的に乗り越えられないものは何もないという感じは同じだったけれど。どっちも無敵。
旧作で初めて観たものの中で特に良かったのは、『名も無き野良犬の輪舞』(2018年・韓)と『ライフ・ゴーズ・オン』(2016年・米)。前者は息をのむようなショットの連続で、目が離せなかった。後者では、対照的にあまり大したことは起こっていないように思えるが、実はとても多くのことが起こっている。