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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

9月の鑑賞日記

某日
 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。無限のフォロワーを生み出したタランティーノ監督の本作には、変わりゆく1960年代のハリウッドへの愛が存分に注がれている。
 暴力を凌駕する別の暴力により歴史を改変してしまうタランティーノのパターンはもはやお家芸だが、やはりそれを踏襲する上で、その暴力を誰にどのように向けるかは改めて考えなければいけないと思っていた。火炎放射器は一体誰に向けられるべきなんだろうか。ところで、燃費のひどいアメ車がラジオからの音楽を大音量で流しながら猛スピードで走るところを車の後部座席からじっくり見せる場面が何度もあったことに感動した。

 映画絡みで言うと、The Ringerという海外のサイトで1990年代のアメリカコメディ映画を振り返る連載("Comedy in the '90s")が8月から始まっていて、毎回読んでいるのだが、これがすごぶる面白さ。今まで点としてしか把握できていなかった90年代のコメディ映画を自分の中でようやく(何本かの)線として理解できてきた感がある。


某日

 『アド・アストラ』。男らしさの解体というジェームス・グレイの説明は少し都合の良過ぎる説明だと思う。自らの弱さを前面に出すのはたしかにマッチョな考え方と対極的な概念なのだが、それを以前のブラピは果たして本当にやってこなかったのだろうか。

 しかしそれにしても、素晴らしい年の重ね方を見せてくれた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のブラッド・ピットとはかなり違っていたのには驚きを隠せなかった。

 目の下のクマが際立てる彼の悲しみに満ちた表情は印象的で、海王星まで孤独な旅を強いられるのはこの表情を見せるためだったのか、とまで思うが、その孤独はどちらかというと、自分の心の声としてはっきり喋ってしまっており、やや説明的な話の運び方にはあまりしっくりこなかった。 

 アメリカの白人男性が、父親無き/亡きまま大人になるが、最終的には自分の父親との関係と向き合わなければならない、というパターンは、アメリカにおける物語の世界(小説や映画など)ではよくあることだが、宇宙の果てまで行ってもアメリカ人の旅路はロード・ムービーになりえるのだなと思った。

 9月はブラピに始まり、ブラピに終わった。超マッチョなブラピと、繊細なブラピの二面性を見られたのはよかった。いずれにせよ、身体的に乗り越えられないものは何もないという感じは同じだったけれど。どっちも無敵。

 

 旧作で初めて観たものの中で特に良かったのは、『名も無き野良犬の輪舞』(2018年・韓)と『ライフ・ゴーズ・オン』(2016年・米)。前者は息をのむようなショットの連続で、目が離せなかった。後者では、対照的にあまり大したことは起こっていないように思えるが、実はとても多くのことが起こっている。

 

8月に読む戦争本

 8月前半はやはり第二次世界大戦関連の特集が数多く放送されていた。そのころに読んでいた本を挙げてみる。理由は、あまり歴史関連の本を普段読まないのだが、この時期くらいには読もうと思ったからと、池内紀の『ヒトラーの時代』に対する指摘がtwitterで話題になっていたから。

https://note.mu/grossprinzessin/n/nd90a488cb3ed

その際に、ナチスヒトラー関連の推薦図書として挙げられていた三冊が以下のもの。

 

 

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)

 

 ヒトラーが権力の階段を昇り詰めるまでを把握するのに適した本。敗戦への道筋よりもそれまでの過程を事細かに紹介している印象。

 

ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い (中公新書)

ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い (中公新書)

 

  こちらは未読だが、新書としてはかなりの情報量。

 

 

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

 

 こちらは再読。そもそもヒトラーの演説は絶大な影響力を持っていた、という一般認識を持っている人は多いと思うが、その演説のレトリックがどういったものだったのか、そしてその力がいかに衰えていったのか、という点を論じているのがこの本。端的に言えば、我々はヒトラーの演説力をあまり分からないまま神話化してしまったということになる。

 

 

 

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

 

 こちらは、岩波新書の新刊。丁度著者のsession-22の出演も決まっているようで、またこちらも聞いてみようと思う。

 

 

 

大東亜戦争 敗北の本質 (ちくま新書)

大東亜戦争 敗北の本質 (ちくま新書)

 

 

PR誌「ちくま」の広告でこの本が挙げられていたので、ささっと読んでみた。

戦略と戦術との違いは、結構参考になったものの、今回挙げた本の中では一番響かなかったかもしれない。

(ちなみに、戦略と戦術の違いの箇所を読んでいると、いかにビジネスの世界における「軍事メタファー」の使い方がいい加減かよくわかる。余談になるが、何で経営を戦国武将から学ぼうとするのか。資本主義における競争は戦争ではないし、社員は兵士じゃないぞ。その発想の危なっかしさに気づけていないようでは一人前の経営者になれないと勝手に思っている) 

 

スパイダーバース 

 2000年代以降から当時の映画を観てきた人たちは、スパイダーマン映画史の生き証人であると言ってもいいだろう。サム・ライミの「スパイダーマン3部作」から始まったこの歴史は、マーク・ウェブ監督によるリブート、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)への参入(『キャプテンアメリカ シビル・ウォー』、『ホームカミング』)を経由して、2019年3月の時点では『スパイダーバース』で一つの頂点を迎えた。

 もちろん、どこをもって頂点とするかは個人の見解に寄るが、『スパイダーマン2』はシリーズ最高傑作として誉れ高い作品だろう。しかし、ライミ監督の三部作のうち、唯一劇場で鑑賞したのは最も評判の悪い『スパイダーマン3』だった。しかも、割と気に入っていた自分がいた。敵役が3人(?)登場する豪華な接待にあまり悪い印象を持たなかった。一方『スパイダーマン2』は近所のビデオショップの閉店セールにて購入したDVDで観たので、作品そのものの出来に関する所感よりも、その円盤から伝わる切なさの印象の方が強い。それゆえ、自分の色眼鏡が随分曇っていると思うという断りを入れた上で本文を続ける。 

 消耗感を個人的に覚えていたスパイダーマン・シリーズ(といっても何を指しているかはっきりしないところに一種の病理がある)に新たな光がさした、と表現するほかない。実写版にある種の視覚的限界があるなら、コミックの派手でポップなビジュアルに映画ならではの動きを加えればいい。リブートが繰り返される現状がマンネリ化し、そこに物語的限界があるなら、一人のスパイダーマンではなく、背景の異なる複数のスパイダーマンを映画に出せばいい。こうしたアメコミならではの「節操のないサービス精神」を導入することでこの映画は成立できたと言えよう。

 また、そういった具現化される可能性と対照的にどうしても避けられないヒーローの宿命も提示していたことも忘れてはならない。そこにはやはりスパイダーマンであることの悲哀がある訳で、それゆえジョークを飛ばしながら快活に戦い続けるスパイディたちの奥深さを見ることが出来る。

 しかしながら、スパイダーマンという物語のバトンはアニメでなく、また一旦実写版トに返される。10年来の大団円を迎えたMCUの製作陣はあの初々しい『ホームカミング』を乗り越えて、その功績に恥じない作品を作ることができたのか。

『エンドゲーム』短評紹介 (ネタバレなし)

 

以下は『エンドゲーム』短評の拙訳だ。コンパクトに注目点がまとまっていたので紹介する。

https://www.vox.com/culture/2019/4/26/18518556/avengers-endgame-review

 

待望の「アレ」がやってきた。MCUの「インフィニティ・サーガ」の"非"公式な大フィナーレ-2008年の『アイアンマン』の公開から始まったシリーズ最終作-がようやく劇場公開された。ネタバレは当然控えるが、『アベンジャーズ:エンドゲーム』は、何年にも及んで流れ込んできた数々のプロットやキャラクターたちに満足のいく結末をもたらすものであり、過去作から生じた多くの物語の糸筋を何とかまとめ上げている。

 もし本作が「完全に」首尾一貫していないとすれば-プロット上の穴、科学(?)面での不可解さ、そして数多くの疑問は残ったままだ-それはあまり問題ではない。本作以前の一部のMCU映画が成し得ず、本作が成し得たことは、本当の感情的共鳴であり、巧みに構成されているバトルシーンや泣かせる場面は多くある。そして『エンドゲーム』はMCUにおける新たなる時代のためのステージも用意している。(by Alissa Wilkinson) https://www.vox.com/culture/2019/4/26/18518556/avengers-endgame-review

 

この評者Alissa Wilkinsonは自身のツイッターでとても興味深いツイートをしていたので次いでに紹介したい。

『エンドゲーム』のようなものを見ていると、どこかの映画会社が聖書映画のシリーズを作れたらどれだけすごいことか考えてしまう。全体のストーリーが、ファンたちのためのコント集でなくて、何百万ものキャラクターととてつもない山場から成るストーリーであることに気づけば。

https://twitter.com/alissamarie/status/1120862844759826432?s=20

 

ある一つの終わり エンドゲーム鑑賞後の所感 (ネタバレなし)

 一映画ファンとして常に興味を持つのは、一連の映画作品からなるシリーズないしジャンルの「終わり」だ。

 1969年公開の西部劇『ワイルドバンチ』は、時代遅れのアウトローたちの末路を衝撃的なラストのアクションシーンでもって描き切った作品だった。本作は当時西部劇という一ジャンルの終わりを告げるものでもあった。それはたしかに完全ではないにせよ、「一つ」の終わりではあった。

 X-Menシリーズのウルヴァリン三部作完結編である『ローガン』は、あるガンマンの象徴的死を通して西部劇なるものの終わりを暗示させる『シェーン』を明示的な参照点として設定することで、重厚な「近未来の西部劇」たりえた。X-Menの代表格であるウルヴァリンの最期は、X-Menシリーズの有終の美を飾り得ただろう。しかし、当然ながら後続作は控えている。一旦修正したタイムラインにおいて更なる敵が出現し、「最強の敵」のインフレーションに歯止めがかからなくなる。物語は「はしたなくも」続いていく。

 4月26日公開の『アベンジャーズ:エンドゲーム』は、間違いなくアベンジャーズシリーズ第4作目にして最終作である。これでもって11年間に及び、23本の映画から成る「インフィニティ・サーガ」は終わりを迎えた。しかし、映画あるところに人々の欲望は宿り、人々の欲望あるところに映画は宿る。既にスパイダーマン単独映画二作目である『ファー・フロム・ホーム』はこの夏確実に劇場にやってくる。マーベル映画も美しい終わりなどを迎える気はない。ただ「はしたなくも」続いていくのみだ。ともすると、この終わりなき世界で一つの終わりをかみしめるには、我々に多くの豊潤な体験を与えてくれたアベンジャーズに感謝の念を表すとともに、はっきりと別れも告げなければいけないだろう。

 

 

アカデミー作品賞受賞作『グリーン・ブック』前情報(そんなに「いいハナシ」なのか?)

 海外のポッドキャストを普段からよく聞いているのだが、中でも毎週更新が待ち遠しい番組が"Still Processing"で、性的マイノリティ&黒人という二重の意味で少数派の男女二人(Jenna Worsham & Wesley Morris)が、アメリカのポップカルチャーが今日の社会にどういう意味を持つのか、丁寧にかつ快活に説くものだ。かなりシャープな議論を展開する二人の話は本国アメリカの議論自体の何歩も先に行っている感すらある。そこで何度か引き合いに出てくるのが今年のアカデミー賞候補『グリーンブック』だ(どうも作品賞は『Roma』かこれが有力候補らしい)。

 

Rotten Tomatoesでも80%、imdbでも8.3/10と、観客、批評家双方の評価は高い。しかし、異人種間の「友情」を描く本作に対する二人の評価はかなり手厳しい。正直なところ、二人は結構憤っている。

https://www.nytimes.com/2019/02/21/podcasts/still-processing-fantasies-spike-lee-do-the-right-thing.html

 そのあたりをより細かく分析しているのが、Wesley MorrisによるNYTの記事。

Why Do the Oscars Keep Falling for Racial Reconciliation Fantasies? - The New York Times

(荒く訳してみると、「なぜアカデミー賞は、人種和解というファンタジーに騙され続けるのか?」)

 たしかに、『ドライビング・ミス・デイジー』のような、終始雇い主に従順な黒人と、最後は少しばかりの優しさを見せる偏屈者の白人という構図を『グリーン・ブック』は反転させている。しかしながら、結局人種差別的考え方(露骨なものあれ、マイルドなものであれ)を持つ白人の成長を描くことで、彼を簡単に赦してしまっており、人種問題に一種の解決を見出そうとする映画の構造は変わっていない・・・と乱暴にまとめてみるとこうなるだろうか。要するにこの映画はリベラルを自称する白人たちが求めるような映画であるが、そのような異人種間の関係を温かいまなざしで描いた本作が当事者である黒人たちには、寒々しく映るのだ。

 本作を未見の立場でありながらではあったが、とりあえず「いい話」として日本に紹介されている本作に対する違和感を表明しておきたかったので、上記の内容を紹介してみた。興味のある方は是非本文を読んで頂きたい。

 

 

 追記:

 見事に『グリーン・ブック』が作品賞に輝いた。脚本賞を受賞したスパイク・リーの反応は以下の引用の通り。

. . . When "Green Book" won best picture, he made a disgusted gesture and started walking out of the theater as "Green Book" producers gave their speeches. Backstage, Lee said "No comment," when asked about the coronation of "Green Book," which detractors complain has a retrograde view of race. 

Oscars 2019: ‘Green Book’ Is Best Picture; Rami Malek and Olivia Colman Win - The New York Times

(拙訳)

 『グリーン・ブック』の作品賞受賞が決まり、スパイク・リー監督はうんざりした身振りをして、本作のプロデューサーが受賞スピーチをする中、会場から退場し始めた。舞台裏にてこの受賞について訊かれたリー監督は「ノーコメント」。この作品を、時代遅れな人種観を持つ映画だとして非難する者もいた。

 

 

 

備忘録:ゴダールの新作はどうなっているのか

ジャン・リュック・ゴダールの新作『イメージの本』が日本で一般上映される日もそう遠くはないはず、なのだがいまいちどういう映画なのか分かっていなかった。そこで、たまたま自分がぶつかった情報を軽くまとめてみた。

まず始点は蓮實重彦。以下のツイートは、今年1月にあったトークショー(本人監修の「ハリウッド映画史講義特集」における『拳銃魔』(1950年、傑作!)上映会にて)でのもの。

 夢中で年明け早々ゴダールを見まくる蓮實氏。

そして次は早稲田大学教授藤井仁子ツイッターならぬブログ上の一連の投稿。

(完全に余談だが、ちゃんと「つぶやき」ではなく「さえずり」と表現しているこのブログ投稿が本来の意味でのtweetということになる)

革命の日の朝の屑拾い日記」02022019

mgccinema.exblog.jp

 さえずり 02022019

「それでもまだ物語ることはできる」でずっときたゴダールがそれをやめたということか。芯となる人物も消えたことにまずはシンプルに驚くべきだろう。ゴダールは(彼なりの)創作のきっかけがわりと見えやすい人だが今度はよくわからぬ。いやむしろアラブと明言されているのがまるで信じられないのだ。

 さえずり 02022019bis

演技された老人の嗄れ声による遺言ごっこは相変わらずだが90近い爺さんにやられるとごっこなのかマジなのかが判別できないというのは実は重要なポイントだと思う。全篇が偉い人の真顔の自虐で笑っていいのかわからず困る感じ。昨年の騒動にからめていえば贋作といわれたほうがいろいろスッキリする。

さえずり 02042019
対位法の話をしながら流れるのはメンコン。むろんメンデルスゾーンがいなければバッハが再発見されることもなかったという途中の理屈が平気で省略されるがゆえの相変わらずの喰えなさではある。だがこのように簡単に解説できてしまうところにこそ引っかかるのだ。やはり衝撃力は目に見えて落ちている。 

さえずり 02042019bis
というかそのような衝撃力などはなから目指していない感じがこれまでと違いすぎる。どうも本気で自分の映画にアラビア語を響かせたいわけでしょう。意味はわからなくてもこの響きを聴けと。『映画史』のあのどこまで本気かわからないイタリア語讃歌とは全然違う。今さら西欧中心主義を反省? まさか!

さえずり 02052019
いちばん似ているのは『オリヴァー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』といえばさすがに怒られるか。その自作引用の仕方にも引っかかる。このときこの場面を撮ったのはこういうねらいでしたと作者本人に解説される感じが否めないのだ。めずらしく英語圏で絶賛の嵐というのがなんかわかっちゃう。

さえずり 02052019bis
英語圏だとこういうのはエッセー映画であっさり通じるし現にそう評されている。よかったですねえアニエスさん、ジャン=リュックがちょっとあなたに近づきましたよ。真面目な話、少し前までのゴダールならアラブに映画は存在しないと平然といいはなったはず。それが今回は何? 変わったってことなの?

最後はジャズミュージシャン/評論家の菊地成孔が今年2月8日のネット配信サイトDommuneでの番組でしゃべっていた内容を振りかえってみると、どうやら今回の作品はゴダールが今まで撮った映画の切り貼りのようなものに、本人のナレーションをかぶせたものらしい。しかも、スクリーンサイズが本編中に変わっていく。そして、試写一号で観ていた人たちの大勢はどこかのタイミングで寝ていたらしい(笑)